─── 前回伺ったマドリッドの事件から5ヶ月、21世紀最初の年を迎えます。この頃は織田さん自身の公式サイトのDIARYも毎日のように更新されていますね。
織田 毎日リハビリだけはしていたけど、歌が歌えるようになるかどうかも判らない中で、俺が本当にこれからどうしたいのか自分を見つめなおす日々でした。酒をやめたらやけに時間が余ったし、仕事も最低限しかしないようにしていたので、毎日絵を描いたり詩を書いたりしていたんですよ。でも何も接点がないままじゃ心配しているであろうファンの方々にも申し訳ないし、リハビリ日記ということで文章を書き連ねてみようかな、と。これが意外に書き出すと楽しくて。こんなにも俺は文章を書くことが好きだったとは(笑)。とはいえ続けなきゃいけないって義務感や強迫観念になると続かなかったと思うけど。ずっと自分は筆不精だと思っていたんです。なんのことはない、字を書くのが苦手だっただけだったんですね(笑)。無駄に筆圧が強くてすぐ疲れる(笑)。パソコンのキーボード操作に慣れたら毎日書きまくりでした。
─── 織田さんの日常、スタジオ風景、そしてリハビリの様子も公式サイトの過去ログで、読み返すことができます。飾らない織田さんの素直な心の動きが表現されていますし、社会時評的な文章や扱われている題材も幅広く読み物として大変面白い。またご自身をよく観察、分析されているなあと感心します。
織田 自分自身をも冷静に観察対象として扱う『外郎くん』と、素直な感情にゆれる『内郎くん』と両方あわせて「哲郎くん」なんて話もありましたね。基本が『観察家』なもので、自分自身の感情も興味深い観察対象なんです。俺も過去のダイアリーをたまに読み返すことがあるんだけど、8年前からでほんと良かった。20代でこんなもん書こうとしてたら、あとで恥ずかしいったらない(笑)。8年前でも今より少しは青いけど、基本的にこのダイアリーに書いてあることは今の自分も共感できることばかりです。
─── 声の回復具合、リハビリの進行具合を改めてお聞かせいただけますか?
織田 リハビリの話でいうと声はキーを下げて歌ってみたり、いろいろチャレンジしてみるんだけど、上の音、たとえばG(ソ)の音がなかなか出ない。上の音が出ないなら、低音で渋く決めようと思っても下は下で頼りない。一進一退の状況は簡単には変わらなかった。まだまだシンガーとして人前で歌うレベルにはたどりつかず、使い物にならなかったね。練習曲として音域の広い「いつまでも変わらぬ愛を」で回復具合を確認することが多かったんだけど、何とか歌えた日は自分でも可笑しいくらい素直にうれしかったし、思うように声が出ない日の落胆ぶりときたら、本当に素直に落ち込んでいたし。自分がどれほど歌いたかったのか本当に良く分かったよ。
─── リハビリが一進一退を繰り返しながらも、織田さんご自身、いつ頃から手応えを感じはじめたのでしょうか?
織田 たぶん2001年の3月にファンクラブイベントで事件後はじめて歌った時かな。ここまでくれば何とかなるぞってところまで何とかもってこられた。感無量だったね。涙が出たよ、素直にうれしくてね。その後もリハビリを続けながら、また「行きましょう、どこへでも」のようなツアーをやりたいなって、強く思うようになりました。
─── 2001年といえば、KinKi-Kids「ボクの背中には羽根がある」の作曲、The KaleidoscopeやTHE TRANSFORMER、相川七瀬さんの5枚目のアルバム「Purana」リリースもありましたが、仕事量はどうでしたか?
織田 たいしたことはないよ、っていうか、ガンガン仕事していたのはマドリッドの事件前までだったから。それ以後はリハビリの毎日で、プロデューサーとしての仕事らしい仕事はしばらくほとんどしていなかった。まあ、カレスコにしても、トラフォにしても、それぞれ才能もあるし、楽曲作りも自分たちでできるミュージシャンだったので、俺自身はレコード会社との調整役も含めた見守り型のプロデューサーだったし。本人たちの優れた才能を開花させ、それがアルバムに結実するまでしっかりと見守ることが大切だったんです。
─── プロデューサーという職種について、一般の方にはわかりにくい面もあろうかと思います。もう少し詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか?
織田 そうだね。ひとまとめにプロデューサーって言うけど、プロデュースワークって、いろいろな意味合いがあるからね。まず大きく分けると音楽面での責任者が『サウンド・プロデューサー』、他のお金やらなんやら一切合財の責任者が『エクゼクティブ・プロデューサー』。通常『サウンド・プロデューサー』の方を指してプロデューサー、と呼ぶことが多いんだけれど、たとえば作詞作曲編曲演奏からミックスまで一人でやる人もいれば、そのどれも自分はやらずに誰に任せるかを考えるタイプの人まで幅がある。俺の場合、相川に関して当初は作詞作曲編曲演奏までやってライブ、PVまですべてに関わるトータル・プロデュース。音楽から何からすべてに対し、責任を取るというスタンスだった。でもトラフォやカレスコ、BA-JIに関してはそうじゃなかった。本人たちは自分たちで良い音楽を作る才能があったわけだし。俺はあくまでも見守り役、調整役に徹していたんだ。ここ数年で言えば上戸彩さんの時は作詞作曲編曲まで俺がやってる。ファジコンの場合いろいろ相談にのりながら最終的にすべてバンドメンバーによる作詞作曲、演奏だし。あくまでケースバイケースです。俺みたいなタイプは比較的珍しいかもしれないね。
─── 当時、織田さん、小室哲哉さん、つんく♂さんと自らミュージシャンでもある音楽プロデューサーが注目を集めていた時代でもありました。
織田 それはたぶん小室君にしてもつんく♂にしても、あるいは相川の場合の俺にしても、音楽作りのすべてに関わるタイプの人間が注目されていたこともあって、当時はプロデューサーっていうと、曲や詞を提供する人というイメージが強かった。実際レコード会社のスタッフからも「織田哲郎がプロデュースしているんだから、売れる曲を作って歌わせて欲しい」って短絡的にいわれることも多くてね。でもそうじゃないんだよ。
─── 実際のプロデュースワークとヒットメーカーでもある織田さんに対する世間のイメージとの間に乖離があったと?
織田 俺はもともとバンドマンだし、いいバンドの力を伸ばしてあげられたら、とすごく思うんだよ。でも平たく言うと織田哲郎をよく知らない人にとって、織田哲郎っていうと「おどるポンポコリンの織田哲郎」だったりもするわけで、その織田哲郎にプロデュースされているってことがマイナスになったケースもあったんじゃないかって思うこともあるんだ。対外的に彼らの才能を一番良いイメージで売り出すっていうことにはつながらなかったんじゃないかと。ぶっちゃけた話としてはね。
─── 深くお話いただき恐縮です。ありがとうございます。では次に相川七瀬さんの5枚目のアルバム「Purana」について、お聞かせ下さい。
織田 相川を誰に任せるか?これがなかなか難しくてね。俺自身、心身共にどんどん悪い方向に向かっていた時期と重なっていて、そろそろ休まなきゃと思っていながらも、ずっと全部やっていたんだ。誰かに任す以上、俺と違ったものを作ってくれなきゃ面白くない。俺みたいなもの、よく似たものを上手に作られても面白くないわけだし。悩ましい問題だった。
─── というと、制作の時期は2000年、マドリッドの事件前ですか?
織田 事件前ですね。事件よりもだいぶ前にアルバムの方向性を決めて、誰に任せるかを決めていました。
─── このアルバムではプロデューサーに布袋寅泰さんを起用されていますね。
織田 布袋だったら俺とは違うイカしたものを作ってくれるんじゃないかなと思ってね。彼の凄さ、素晴らしさをアルバム作りに活かしてくれることを期待したんだ。相川のロックには常にデジタルな匂いが欲しかったしね。相川がデビューした頃はまだロックは熱くてアナログなものっていう時代でした。今ではデジロックも普通なものになったけど、デジタル音楽と結託するイメージはあまりなかった。相川についてはロックだけど、アナログ的な熱さのない、デジタルでクールな手触りのものを最初から目指していたから、そういう観点からも布袋に託してみたいと考えたんだ。
─── 布袋さんとの出会いは?
織田 BOØWYが結成されるか、されないかの頃だったかな?氷室や松井はその前から知っていたし、マージャン仲間でもあったけど(笑)。俺がBOØWYのライブやレコーディングに遊びに行ったり、布袋君が俺のライブ遊びに来てくれたりといったきっかけで付き合いが深まったんだと思うよ。彼はマージャンやらないから(笑)。
─── 「Midnight Blue」や「Seven Seas」など布袋さんの手による多くの名曲が生まれます。
織田 Midnight Blueは今でも相川のライブで盛り上がる良い曲だよね。そしてこのアルバムの制作が終わって、相川も結婚して一区切りって感じだったね。
─── 2001年の織田さんを振り返ってみると、マドリッドの事件後、治療やリハビリの毎日があって、そして、はじめて人前で歌ったファンイベントで復活を果たしたことが一番大きかったということでしょうか?
織田 そうだね。ちょこちょこ楽曲提供の仕事もしていたけど、ライブパフォーマンスを再開できたってことが一番大きかったよね。そういえば山弦のおぐちゃんともマーチンのイベントに二人で出たなあ。2001年はあらゆる意味でリハビリの年だったね。こうして改めて振り返ってみると1999年から2000年の俺自身、精神状態も最悪で、何もかも嫌になっていた。それが2000年、マドリッドであんな事件にあって、もう歌えないかもしれないって状態になった。そのおかげでどれだけ歌いたいか、自覚することもできたし、自分のベーシックなところへ戻るキッカケを与えてくれたとも思っています。自分のアルバムも作るぞっていう気持ちにもなれたし。翌年の1月から「行きましょう、どこへでも2」ツアーを始めることになった。
─── では2002年、復活のライブツアーとなった「行きましょう、どこへでも2」のお話をお聞かせ下さい。
織田 基本的にはリハビリを兼ねていたから、歌えることのうれしさを満喫したツアーみたいな感じだったね。
─── 全国20ヶ所以上回られたわけですが、会場はどんなところが多かったのでしょうか?
織田 最初の「行きましょう、どこへでも」の時と同じように、バラエティに富んだいろんなところから呼んでもらいましたよ(笑)。ライブハウスという名のスナックや食堂、酒蔵もあったね(笑)。小さな会場にギュウギュウ詰めで、しかもじっくり聴かせる曲がほとんどだったから、お客さんからすると狭いところで、じっとしていなくちゃいけなかった。それで酸欠で倒れちゃった人もいてね。こっちは歌えることがうれしくてうれしくてしかたないもんだから、曲数もかなり多かったし、悪いことしちゃったな。このころからだね、ライブ中ウダウダ喋ることが多くなったのは。
─── MCが長くなったんですね。
織田 そうなんだ。最初の「行きましょう、どこへでも」でもだいぶMCが長くなっていたんだけど、「行きましょう、どこへでも2」はライブができることがとにかくうれしくてね。バンドやってた頃に比べると、ダラダラしゃべるようになった。ツアーの最後の頃には4時間やった会場もあった。
─── ライブではどんな曲を?
織田 そりゃあ、もういろいろだったね。リハビリの時によく歌っていた洋楽も増えたし。
─── そのツアーも5月には一区切りでしたね。今回のロングインタビューもそろそろ時間となりました。「行きましょう、どこへでも2」以降のお話はまた次回に。
織田 その頃から、また酒を飲みはじめちゃってね。ダメな男だねぇ。酒浸りの生活に戻っちまったあたりの話はまた次号で(笑)。
─── よろしくお願いします。ただいま織田哲郎プロジェクト2009の新サービスを全力で制作しております。次回ロングインタビュー更新日はこのページで近日中に発表します。もう少しお待ちください。よろしくおねがいします。
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