─── 第20回を迎えた織田哲郎ロングインタビュー。今回は20世紀最後の年、ミレニアム、2000年についてお伺いします。世相を振り返ると、少年による重大犯罪、凶悪事件が頻発、それをきっかけに少年法が改正され、社会問題化していたストーカー事件に対応して、ストーカー規正法が施行されたのもこの年です。また有珠山、三宅島雄山、駒ケ岳(北海道)での火山噴火、小渕恵三総理の急逝、森喜朗内閣発足、衆議院議員選挙、シドニー五輪、日本シリーズON監督初対決、この一年もさまざまな出来事がありました。音楽シーンを振り返ってみると、宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、椎名林檎、倉木麻衣、MISIA、そしてつんく♂プロデュースのモーニング娘。をはじめとするさまざまなユニットなど女性の活躍が目立つ一年でもありました。
織田 この年、自分自身のオリジナルアルバムを作るって宣言してはいたものの、実はカラカラに渇ききっていて、アルバムの制作どころではなかったですね。
─── 以前お伺いしたMAXI SINGLE「キズナ」を制作した頃のエピソードやスペインでの事件もこの年、2000年のことですね。
織田 自分以外のすべてとの「キズナ」が希薄に感じられるほど、渇ききっていた。思い出すのもシンドイ頃ですね。抗ウツ剤も飲んでみていたけどあまり好きでなくて。あれって感情に変なコンプがかかるんだよ。そして結局いつも酒びたり。「キズナ」をレコーディングしている時にもう自分の中に何も残っていない、空っぽだと気づかされたんです。それでレコーディングを終えて7月に無期限で旅に出ることにしました。相川の4枚目のアルバム「FOXTROT」の制作を終え、楽曲提供やプロデュースの依頼をこなした後にヨーロッパに向かいました。
─── 渡欧前の織田さんは女子プロレスラー、キャンディー奥津さんのテーマ曲や知念里奈さん、BAJI-R、高橋克典さんのプロデュース、深田恭子さん、V6、島谷ひとみさんへの楽曲提供など依然幅広く、超多忙な毎日だったのでは?
織田 俺自身がグチャグチャだったにも関わらず、前回も紹介した事務所で抱えていたアーティストについての仕事や、楽曲提供やさまざまな形でプロデューサーとして関わった人も多かったし、かなり忙しかった。どれもこれも、そんな精神状態でもなんとか精一杯真剣に取り組んでいたからね。多分いつも酒臭かったけど(笑)。島谷ひとみちゃんの「解放区」も詞曲、歌唱のバランスが良い作品に仕上がったと思うし、知念里奈ちゃんの「BABY LOVE」は今あらためて聴くとカッコいいよ。高橋克典君に提供した一連の作品も、彼の持つ颯爽とした男らしさと繊細さと相反する要素が彼にしかない魅力を醸し出す、とても良い感じに仕上がったと思っています。
─── 時系列で振り返ると、そのあと、この年の夏、パリコレにモデルとして二度目の出演を果たされていますね。パリコレといえば、どんなに出たくても、そう簡単に出られる舞台ではありませんが。
織田 そうだね。パリコレに二度もモデルとして出演するなんて、俺、超一流モデルだよね(笑)。橋本倫周さんのおかげなんだけど。この時は二度目ということでだいぶ落ち着いて、モデルの仕事が出来たかな(笑)。まあ俺の場合、あくまでも「飛び道具」としての出演だから。MASATOMOさんは当時通常のモデル以外にさまざまな国から、キックボクサーや空手家、あるいは実業家といった男性を数名、いわゆる「飛び道具」モデルとして起用していたんです。結局二度もMASATOMOさんに呼んでもらった。すごく面白かったな。貴重な体験をさせてもらいました。
─── パリコレのあと、ヨーロッパを旅したということですか?
織田 まずギリシャへ向かいました。サントリーニ島というところへね。
─── いつもの一人旅ですか?
織田 この時はね、両親を生まれて初めて、旅行に招待したんだ。それがエーゲ海に浮かぶギリシャのサントリーニ島という美しい島だった。
─── 親孝行の旅でもあったんですね。
織田 そういうことになるかな。 当時毎年のように1人でサントリーニ島に行っていてね、俺が世界で一番好きなところへ一度両親を連れていこうと思って。
─── はじめて、親子水入らずの旅行、どうでしたか?
織田 一日じゅう、ずっと一緒にいるってわけじゃなくて、基本、お互い干渉せず、自由に過ごすって感じ。ずっと一緒にいると、親子喧嘩しちゃうしね(笑)。もともとあまり相性のいい親子じゃないんで(笑)。まあ、そうは言っても、サントリーニ島の良いところは俺がよく知っているので、ツアーの添乗員のように、景色の良い場所やら何やらいろいろな場所を案内するって感じでね。両親も喜んでくれたよ。
─── そのあとにスペイン、マドリッドに向かう。そこであんな強盗傷害事件に逢うとは。
織田 う〜ん。でも不思議と理不尽なことだとは思わなかったんだ。あの頃の俺はあらゆる点でグチャグチャになっていたし、無茶も散々していたし、音楽だって、やりたいんだか、やりたくないんだか? 歌いたんだかどうだか自分でも分からなくなっていたし。あのままでは明らかに破滅に向かっていたんだと思う。そんな状態だったから、事件直後はこんなこともあるよなって、考えていました。
─── 当時日本人旅行者への注意喚起もあったようですね。
織田 スペインでは旅行者目当ての強盗事件が頻発していたと聞きました。でも今思うと、俺自身、どこかにスキがあったのかもしれない。観光客っぽいことをして、強盗に目をつけられたんじゃないかって思い当たるふしもないわけじゃない。しかも暗がりの路地に入っちゃったわけだし。
─── 背後から突然襲われたそうですが。
織田 そうなんだ。凄い体格の強盗に背後からいきなり首を絞められ、そこで気を失っていれば良かったんだろうけど、なまじ体力があったから一瞬抵抗したんだよ。そしたらもう一度首を絞められ、そこでようやく気を失って、目覚めた時には現金、カード、パスポートから全部取られてしまい、それも再発行やら何やら手続きが大変だった。でも俺はかなりのハプニング好きなんで、そういったことも実は結構楽しかった。普通海外で警察だの大使館だの行く機会ないでしょう(笑)。でも問題なのはその結果、声帯を潰され、声帯まわりの軟骨も変形し、声が出なくなってしまったことだった。
─── 織田さんの公式ホームページで、事件のことを自らお書きになり、その直後、事件が各メディアで報道され、たいへん驚いたことを思い出します。
織田 最初はそのうち声も出るだろうと思っていたんだけど、一ヶ月くらい経っても、一向に改善の兆しが見えず、さすがにこれはヤバイなって思い始めてね。声帯関係で有名だといわれる医療機関や先生にいろいろ診察してもらうんだけど、「もう声は元には戻りません」とか「治るということはないので、この声に慣れてください」とはっきり宣告され、たしかにそれまでの自分に急ブレーキが掛かったような気がしたね。こう言うと、とても悲惨なイメージを持ってしまうかもしれないけれど、俺自身は意外と悲壮感でいっぱいだったわけでもなかったんだ。当時の自分の流れから見て「こうきたか」あるいは「やっぱりな」といった感じ方でしたね。実際あの事件に逢ったことで立ち止まって、空回りしていた状態を脱して前向きな良い精神状態になれたのも事実だし、それをきっかけにそれまでの自分自身をしっかり振り返ることも出来たわけだし、文字通り「禍福はあざなえる縄の如し」だったと思うんです。
─── ご家族、友人、知人も含め、仕事関係者、ミュージシャン仲間、ファンの皆さん、多くの方が心配されたと思いますが。
織田 事件が公になって、いろいろな方からお見舞いやら心配して連絡もいただきました。ちょうどその頃、フジテレビの「笑っていいとも」に出演させていただくことになって、テレフォンショッキングのコーナーに出たんだけど、「大丈夫だよ、元気だよ」ってみんなを安心させるためにと思って、出てみたら、ちょうど間が悪く、一週間も風邪をひいていたせいで、顔色も悪くてね、余計に心配させることになっちゃった(苦笑)。
─── もともと音域の広い歌手だった織田さんにとって、声が出なくなり、歌えなくなる。実際どういう心境だったのでしょうか?
織田 正直な話、声が出なくなって、俺はこんなに歌いたかったんだってことに、はじめて気が付いたんだよね。それまでは声が出ること、歌うことなんて呼吸するみたいに当たり前のことだったから。でももともと俺は西洋医学というものをあまり信用していないのと、あまのじゃくなので、医者に「もう歌えない」って言われると「そんな訳ねえよ」ってな気になって、一所懸命リハビリに励んだんだ。
─── リハビリをはじめたころ、どんな曲を歌ってみたのですか?
織田 昔好きだった洋楽ばかり歌っていました。それは自分の音楽との関わり自体を再認識することにもつながった。そこから、のちにライブでも洋楽のカバーをよく歌うようになったんだ。たとえばキャロル・キングの「You've got a friend」も当時よく歌っていたよ。でもその頃はとてもとても使いものにはならなかったね。毎日リハビリに励むものの「三歩進んで二歩下がる」状態だった。
─── 「リハビリっつうもんは三歩進んで二歩下がる。人生はワンツーパンチなのだ」と公式サイトに書かれていたのを思い出します。
織田 汗かきベソかき、歩こうよってか(笑)。でもホント、リハビリってそんな感じなんだよね。コツコツと根気強くやる以外に改善の道がない。発声練習以外ではDIARYとして公式サイトで発表したように文章を書いたり、発表はしていないけど、それとは別にいわゆる日記や「詩」、散文を書いてみたり、絵を描いたり、仕事もしっかりセーブして、酒もタバコもやめた。これはまた一年後には復活するけど(笑)。あとなるべく夜寝て、朝起きるようにしようと努力したし(笑)。
─── 2000年10月31日から織田さんの公式サイトではDIARYが始まり、長い期間毎日書かれています。
織田 当初はリハビリ日記として、毎日しかもかなり真剣に書いていたね。少しずつ少しずつ声が出るようになってはいたものの、なかなか人前で歌える状態にはならなかった。そんな当時の日記をいま読み返してみると、世相や自分を取り巻く環境の変化も読み取れるので面白いよ。
─── これから織田さんのことをより深く知りたいと思う方は織田哲郎公式サイトのDIARYをぜひお読み下さい。さてそんなリハビリに励んでいた織田さんがセーブしていた仕事を再開するきっかけを教えてください。
織田 どういう経緯だったかは覚えていないけど、事件直後の仕事再開に関して、よく覚えているのはTUBEのベストアルバム「TUBEst V」に収録されている「シーズン・イン・ザ・サン」をリミックスしたことや相川七瀬の「〜dandelion〜」の制作に入ったことだね。
─── 衝撃的な事件にも逢い、大きなターニングポイントとなった激動の20世紀最後の年も11月には織田さんの新しいスタジオが完成し、静かに暮れていくことになります。
織田 長年の夢だったどんな時間に目が覚めても、すぐに思い切りドラムが叩け、好きなだけグランドピアノが弾ける環境を手に入れたことは嬉しいことだったね。緑に囲まれた閑静な環境だし。
─── 今回もそろそろ時間となりました。次回は織田さんのソロデビューシングルのタイトルでもある「2001年」についてお伺いします。"JK21,Can you hear me?" と問いかけたソロデビューシングルから今年で25年。今日2008年9月10日(水)は「Growing up "1983〜1989"」の発売日です。それに併せて全国ツアーも9月18日(木)札幌を皮切りにスタートします。相変わらずお忙しい毎日ですが、くれぐれも体調には充分ご留意下さい。ライブツアーも楽しみにしております。
織田 了解。 皆さん、アルバム「Growing up "1983〜1989"」は楽しんでいただいていますか? 古村敏比古(Sax)、北島健二(Gt.)、山田 亘(Dr.)、関 雅夫(Bass)、大谷哲範(Key.)というソロデビュー当時一緒に演奏していたメンバーで全国五ヶ所を回ります。ライブではこのアルバム収録曲をお届けしますので、楽しみにしていてください。
─── 諸般の事情により、次回更新を11月19日(水)に変更させていただきます。お待たせしてすみません。今しばらくお待ちください。
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