─── 17回目を迎えた織田哲郎ロングインタビュー、今回はまず1995年を振り返ってみようと思います。1995年、音楽業界ではミリオンセラーが28曲と史上最も多く記録された年でした。世相を振り返ると阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など大事件が世を震撼させた一年でもありました。
織田 そうだったね。大きな事件、出来事は多かった。社会不安が広がる中、音楽業界だけがトチ狂った感じがあった。いわゆる音楽バブル絶頂の年だね。俺自身当時この大きな波にふりまわされていたらやばいなって思っていた。
─── 織田さんはこの年は特に多くのアーティストのプロデュース、デビューに関わり、多忙な日々を過ごされたと前回伺いました。1995年の楽曲提供を振り返るとミリオンセラーもZARD「マイフレンド」、FIELD OF VIEW「君がいたから」「突然」、酒井法子さんの「碧いうさぎ」など名曲を世に送り出しています。
織田 他人をプロデュースすることで自分自身が表に出る機会は確実に減った年です。そのなかでも一番大きかったのは、相川のデビューに向けて準備に追われていたことかな。
─── ではさっそくですが、相川七瀬さんとの出会いからお聞かせ下さい。
織田 1990年、大阪で開かれたあるオーディションに審査員として行った時に出会いました。まだ彼女が中学3年生の時だった。実はそのオーディションでトップバッターが相川だったんですよ。
─── オーディションの最初に現れた相川七瀬さんの印象は?
織田 なかなか強烈だったよ。眉間にシワ寄せて、ジーッと審査員席を睨み付けて、ガンたれていた(笑)しかも審査員の手元に用意された履歴書の写真と名前が別人のものでね。どうやらあいつの友達がオーディションを受ける予定で、その付き添いか何かで一緒に来ることになっていたらしいんだけど、その子が急に来られなくなって、あいつが責任感じて、代役としてその場にいたらしい。とにかく愛敬の無さは半端ではなかった(笑)。
─── 第一印象はどうでしたか?
織田 何だ、こいつ?って感じ(笑)普通オーディションっていうと、笑顔で明るさやハツラツさをアピールするんだけど、真逆でね。工藤静香の曲を大声でかなり投げやりに歌って帰っていった(笑)。
─── オーディションの結果は?
織田 もちろん落ちた。他の審査員には何の印象も残らなかったようだね。ただ瞳に凄く力があったし、俺のなかで妙に引っかかるモノを感じていてね。
─── 再会のきっかけは?
織田 そのオーディションから半年くらい経った後かな。今までになかったようなロックをやりたいと思って、いろいろ構想を練っていたら彼女の存在を思い出した。それで俺から連絡を取って、大阪に会いに行ったんだよ。相川が高校一年生の時だね。その時も俺を睨み付けて(笑)あっさりと誘いを断ってね(笑)。その時は「じゃあ、音楽やってみたくなったら、連絡してよ」そんな感じで俺の連絡先だけ渡して、帰ってきたんだ。それから何ヶ月か経って、今度はあいつから連絡が来た。学校辞めて、プラプラしてたみたい。そんな時に音楽をやってみたいという気持ちが湧いてきたらしんだ。
─── それでもデビューまでにはまだ4年以上ありますね。
織田 そうだね。再会してから2、3年は俺と連絡を取りながら、相川は大阪のガソリンスタンドでバイトしながら、ボイストレーニングの先生についてレッスンを受けていた。俺は彼女にひたすら詞を書かせました。その頃から相川が書いたレポート用紙何百枚という詞の束は今でも全部取ってあるよ。その後彼女が18歳になってから、一人で東京へ来た。それからデモテープを作りながら、相川七瀬というアーティストのイメージを固めていったんです。
─── 18歳で単身上京だったんですね。
織田 あいつにしても不安だったと思うよ。当時18歳の相川には東京に一人も知り合いがいなかったし。今考えてみると、よくお互い相手を信じてきって、みっちりコンビを組んで、あそこまでやれたなって思うよ。周囲は誰一人売れるって思っていなかったけど(笑)でもこいつならやれるだろうと俺は信じていたし。とにかく人間がロックしていたからね。気合入ってるし、何でもキチンとやったし、ホント良く頑張ったと思うよ。
─── 「相川七瀬」という名前はどなたが付けたのでしょうか?
織田 俺。音楽制作はもちろん、当初はステージングから衣装、ジャケットデザインやプロモーションとアーティストとしての全てにトコトン関わった。全力を注いだと思ってる。
─── 1995年11月8日シングル「夢見る少女じゃいられない」でデビューします。タイトルもインパクトがありましたし、ジャケット写真も印象に強く残る作品でした。しかも作詞、作曲、編曲(アレンジ)、全ての楽器演奏に至るまで織田さんご自身で手掛けておられる作品です。
織田 そうだね。タイトルもある意味、度胸のいるタイトルだよね。詞から、曲から、コンセプトを含めて、まわりのスタッフみんなが売れないって言ってた(笑)。ジャケット写真の暗い感じもみんな反対したんですよ(笑)「これじゃ、絶対売れない、ホントにこれでいいの?」ってね。確かにまわりはみんな当時いかに明るくて目立つジャケットを作るか考えているのにあの陰気なジャケット(笑)。他の人達のシングルと並んでいると異様だった(笑)。
─── 周囲の反対にひるむことなく、トータル・プロデューサーとしてのイメージを押し通したわけですね。
織田 当時ナチュラルで前向きさを競うようなガール・ポップや「夢を見れば叶う」といった感じの曲が世の中にあふれ過ぎていて。ひねくれ者の俺には少し居心地がよくない感じがしてた(笑)。まあ俺自身ZARDの「負けないで」など一連の作品を作ってきてその状況の責任の一端を担っていたわけだけど(笑)。「相川七瀬」はそれに対するアンチテーゼだったんですよ。不自然で、ダークで、前向きじゃないロック(笑)。「責任は全部俺が取るから、いいの、これで」最終的にはそんな感じで周囲を説得した。
─── エイベックスからのデビューでした。
織田 エイベックスの松浦くんはモノ凄く真剣に売ろうとし続けてくれてね。いろいろ動いてくれたし。それでいろいろな人の情熱を巻き込んで、デビューシングルはジワジワと右肩上がりで売れていった。なかなか上手く行かないことが多いんだけど、この時はすべてが好循環になっていったね。
─── 相川七瀬さんのために織田さんが最初に書いた曲は別の曲だったそうですが。
織田 そうだね。最初に書いたのは「恋心」。「恋心」を彼女が17歳の時に書いたんだけど、ちょっと早すぎて、しっくり来ない感じがあってね。「夢見る少女じゃいられない」と「バイバイ。」「恋心」この3曲をデビューの候補曲として考えていて、結構長い時間練り練りしていたんだ。一時期「バイバイ。」にしようかと思った時期もあるんだけど、結局「夢見る少女じゃいられない」で良かったと思っています。
─── デビュー翌年(1996年)「バイバイ。」「LIKE A HARD RAIN」「BREAK OUT!」とシングルも立て続けに大ヒット。そして1996年7月にはデビューアルバム「Red」がリリースされます。女性ロックボーカリストとして史上初のオリコン初登場第1位、しかも270万枚という驚異的なセールスを記録します。
織田 デビュー以降、シングルも徐々にセールスを伸ばし、アルバムへの期待感が高まっていましたからね。上昇カーブとしては理想的な流れになっていってね。デビューアルバムがいきなり1位になって、ほとんどのCDショップで品切れを起こし、大騒ぎだったことを覚えてる。以後出すアルバムは連続でオリコン初登場1位が続くんだよね。ホント爆発した感じだった。
─── 音作りもそれまでに聞いたことの無い強い衝撃を味わいました。
織田 ツェッペリンとかクラプトンみたいにアルバムで評価されるミュージシャンとは別に、例えばT.REXやSlade、あるいはBlondieといったシングルが売れるようなタイプのロックが大好きだったからね。そこら辺のバンドの持つ微妙なインチキ臭さに一番ロックを感じてた。だからいわゆるロックとして「良い音」というのは演奏にしても、打ち込みにしてもいくらでもあるんだけど、不自然さを出すために、わざと細い、嘘くさい打ち込みにして、サンプリングにも凝りに凝って作った音を混ぜているんですよ。単にチープな音ではああいう質感にはならない。練りに練って、絶妙なインチキ臭い、本物らしくない音を頑張って作ったんだ。演奏の話でいうと俺自身もロックギタリストとして封印していた部分を全開にして楽しんでいるので、相川の一連作品ではそのあたりが勢いをもって出ていると思うよ。
─── お世辞抜きでこのアルバムや1997年7月発売のセカンドアルバム「paradox」、1998年7月発売の「crimson」、1999年発売のベストアルバム「ID」は日本の音楽史に残る名盤、金字塔ではないかと思っています。
織田 居場所がニッチなところにいるから、なかなかそうは評価されてこなかったけど(笑)でも俺が作ったあらゆる作品のなかで最も売れたのが相川七瀬のデビューアルバム「Red」だね。今のところ。
─── 当時相川七瀬さんの存在感は単なるツッパリでもない、悲しみや切なさを心に抱いた美少女でありながら、傷つきやすい若者の繊細な心に癒しを与えるような存在だったのではないでしょうか?
織田 菩薩性もあると思うよ。いわゆるやさしさが前面にでているタイプじゃないし、不良できつそうなイメージなんだけど、癒しを人に与えられる不思議な魅力をもった子だと思う。しかも根性もあるし、義理堅い(笑)
─── さまざまなアーティストやミュージシャンと数多く関わってきた織田さんですが、そのなかでも相川七瀬さんは「織田音楽学校」の超優等生だったのでは?
織田 間違いなくそうだね。TV出演にしても、ライブにしても、全くやったことのない少女がいきなりTVで歌ったり、武道館でライブをやったり、普通ならビビっちゃうよね。俺なら絶対無理(笑)。でもどれもこれも全部きっちりやり遂げたからね。しかもパフォーマーとして、俺がやりたくてもできなかった表現を見事に実現してみせてくれた。彼女と出会えて本当に良かったよ。
─── 織田さんが手塩に掛けて育て、その期待に応えた相川さん。こうしてお話を伺ってみて「相川七瀬」さんの一連の作品をまたじっくりと味わってみたくなりました。今回もそろそろ時間となりました。2007年もいよいよ残すところ、あとわずか、年末の織田さんご自身のテレビ・ラジオ出演情報を掲載して、結びとさせていただきます。次回更新は2008年1月下旬を予定しております。よろしくお願いします。
織田 こちらこそ、よろしく。
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