─── 『おどるポンポコリン』作曲によって、レコード大賞受賞という大きな栄誉を手に入れ、1990年は幕を閉じます。この大きな出来事が音楽に戻るキッカケのひとつにもなったことは前回伺いました。今回は1991年、当時の織田さんの仕事を振り返ってみたいと思います。この年西城秀樹さんの『MAD DOG』というアルバムをプロデュースされていますね。まずそのお話からお伺いします。
織田 西城さんとのご縁も「ちびまる子ちゃん」で使われた「走れ正直者」からでした。このアルバムは全体の構成を考え、制作も歌入れまですべて関わっています。作詞・作曲・編曲を自分で担当した楽曲も多かったけど、他の人に発注することもありました。奥田民生くんに作詞、作曲を発注した曲もあります。サエキけんぞうさんにシングルでも発売した『Rock Your Fire』という曲の作詞を依頼したり、参加ミュージシャンの人選なども含め、楽しくプロデュースの仕事をさせてもらいました。
─── 『走れ正直者』はスカという音楽、裏アクセントなリズムが印象的な大ヒット曲でした。
織田 実はこの曲が日本で最初にスカでヒットした曲だといわれているんですよ(笑)。つい最近まで、スカだのレゲエだのっていうのはヒットしないと音楽業界でも言われていてね。レコード会社のスタッフも「スカやレゲエはヒットしない」という鉄則があると言っていたし。
─── 裏のリズムは日本人に馴染まないということでしょうか?
織田 そんなことはないと思うよ。盆踊りでも裏アクセントな曲はあるし、特に沖縄民謡なんてもともと裏打ちで、レゲエ調の音楽にもすごく良くハマるんだけどね。不思議なことに当時はなかなか裏打ちは大きなヒットには結びつかなかった。
─── 西城秀樹さんの『走れ正直者』は大ヒット、そして『MAD DOG』のプロデュースを請けるキッカケになった。それまで西城さんとの接点はなかったのでしょうか?
織田 実はそれ以前に「織田哲郎&9th IMAGE」でアルバムの一曲目に収録した「Dreamer」という曲を秀樹さんがテレビの音楽番組でカバーして歌ってくれたことがあったんです。あの頃秀樹さんはアダルトな雰囲気のイメージを前面に押し出していたんだけれど、秀樹さんにはストレートなロックを歌って欲しいと、実は俺が中学生の頃から思っていたのよ(笑)秀樹さんにロックは良く似合うと。
─── 1980年代西城さんはワム! の「Careless Whisper」やバリー・マニロウなどの曲をカバーするなどバラード系の楽曲も多かった。
織田 そうだね。そういう路線だった。
─── 西城さんも歌謡曲にロック系の音楽を取り入れたいという思いがあったのでしょうか?
織田 そういう部分もあったんだと思います。彼はドラマーでもあるし。それにしても俺が中学生の頃なんて日本ではロックというと地味なルックスの人が汚い格好でやってると本物、みたいな感じだったんですよ。ロバート・プラントだってデビッド・ボウイだってあんなにかっこいいじゃない(笑)。というか本来かっこよくてナンボでしょうロックは(笑)。だから秀樹さんのようなカッコイイ人にロックを歌って欲しい、もっとロックを歌えばいいのに、という当時の思いがずっと俺の中に残っていてね。『MAD DOG』というアルバムを作ることによって、そういう思いが結実したんです。
─── 日本音楽シーンが大きく変わる転換期でもありました。TBSで「ザ・ベストテン」という番組が始まって、人気番組として定着していた、そんな時代ですね。
織田 そうだね。それ以前「歌謡曲の時代」というのは、歌謡曲がメジャー、ロックはマイナーというイメージがあった。秀樹さんはそのメジャーな「歌謡曲」の世界のど真ん中にいたよね。1970年代後半になって世良公則&ツイストや原田真二、Char、さらにサザンオールスターズがロックをメジャーにしたことで、日本の音楽シーンの流れが大きく変わりましたね。
─── 西城秀樹さんといえば、名実共に歌謡曲の時代を築いた人ですし、今もなお輝き続ける芸能界の「大スター」というイメージがありますが、実際にお仕事をされてどうでしたか?
織田 本当に気さくで、素敵なイイ人ですよ。すごく仕事はしやすかったし、一緒に仕事をしてみて、やっぱりロックが良く似合うアーティストだと思ったし、さまざまな場面で「一流」を感じました。さすがです。
─── 織田さんの公式ホームページの[DIARY]で2001年7月に書かれていますが、西城さんの結婚式にも招待されましたね。
織田 そうそう、後に結婚式にもご招待いただいたよね。これぞ芸能界の結婚式というくらい招待客も披露宴も豪華だったよ。俺はあまり芸能人の知りあい、友人もいないし、初めての体験だったなぁ「芸能界の結婚式」。
─── さて、1991年その他の仕事について、お聞きしますが、1990年年末のレコード大賞受賞後、『ザ・ベスト・オブ・渚のオールスターズ』リリースがあり、B.B.クィーンズの『ぼくらの七日間戦争〜Seven Days Dream』、ZARD『Good-bye My Loneliness』『不思議ね…』『もう探さない』、Mi-Ke『想い出の九十九里浜』『ブルーライト・ヨコスカ』の作曲=楽曲提供をされています。この頃の忙しさはどうでしたか?
織田 最盛期に比べるとグッとペースを落として、休養もキチンと取りながら、イイペースで仕事が出来ていたと思うよ。ちょこちょこ旅にも出掛けてたり、この年の後半からは自分のアルバムを作り始めたし、心身共にダメージを受けない程度の仕事量だったね。
─── 91年織田さんが楽曲提供した中で最大のヒットはMi-Ke『想い出の九十九里浜』でした。遊び心溢れる楽しい曲です。
織田 純粋に遊びで作った曲だから、とても楽しめた。それにしても良く売れたよね。
─── ところが織田さんご本人はほとんどメディアへの露出がなかったのでは?
織田 そうだね。以前話したテレビ番組のホスト、ラジオのレギュラーを経験して、やっぱり俺には向いていないなと本当に思ったし、そもそも取材で喋るのも苦手なのよ(笑)。メディアに露出することに苦手意識が強かった時期なので、当時はほとんどインタビュー取材も受けていないと思うよ。記憶にあるのは雑誌「SPA」の取材を受けたこととTOKYO FMの番組に出たくらいかぁ?(笑)なんでその取材だけ受けたのかはまったく覚えていない(笑)。
─── そして1992年を迎えます。年明け早々にブルースシンガー近藤房之助さんとの共演が話題になり、今もライブで多くのファンの皆さんに愛される名曲『Bomber Girl』をリリース。3月織田さんご自身の作品としてオリコンシングルチャート初の1位を獲得、ミリオンセラーとなる『いつまでも変わらぬ愛を』が世に送り出されます。
織田 「いつまでも変わらぬ愛を」は俺の中で復活宣言なんです。俺にとって本気でもう一度音楽に取り組むということはオファーに応えて、他人に楽曲提供するということではなく、大切なのは自分の曲、自分のソロアルバムを出すことだったんだ。
─── もう少し詳しく聞かせていただけますか?
織田 前回も話したけど、自分の「治療」のためだけに音楽を作る必要がなくなり、一度は音楽から離れようと本気で考えた。でも一方、自分や亡くなった兄貴もそうだったように音楽によって救われた部分がある。自分たちがそうであったように、音楽によって救われる人が世の中にいて、自分の作る音楽が人の悲しみを癒したり、誰かの心を励ましたり、苦しみをやわらげることに少しでも繋がるのであれば、それはとても意味のあることだし、もしそれが俺に出来るのであれば、音楽は作り続けるべきだと考えた。だからこの曲は「これからもう一度しっかりと音楽を届け続けます」という決意表明みたいなものです。
─── 今年(2007年)5月フジテレビの「Dのゲキジョー」でも語られたように、単なるラブソングではなく、幾重にも織田さんの思いが込められた曲なのですね。
織田 「いつまでも変わらぬ愛を君に届けてあげたい」というフレーズに込めた思いは、「届けてあげたい」というからにはその相手、対象はそばにいないんです。ある時期の俺のような、あるいはある時期の兄貴のような人間にとって俺の音楽が届く事で少しでも楽になってくれるなら音楽を作り続けたい、と思った。だからこそ「届けてあげたい」ということだったんです。ただそういうと大仰な感じがするし、CMソングとして採用されることも決まっていたので、ポップスとして成立して、しかも一般的な恋愛の歌としても受けとめられるように詞は書いています。でも目の前にいない相手だからこそ届けたい、「届けてあげたい」という思いや意味は強いんだよね。もちろん皆さんにはいろいろな受けとめ方をしてもらって構わないんだけど。
─── 1992年6月、その「いつまでも変わらぬ愛を」も収録されたソロアルバム「ENDLESS DREAM」がリリースされます。3年ぶりのライブツアーも再開されました。この時のツアーはどういう感じでしたか?
織田 「ENDLESS DREAM」を完成させ、全国8ヶ所を回ったんですよ。ブラスセクション、女性コーラス2名を含め12人の大所帯バンドでした。キーボードはのちにDIMENTIONをやることになる小野塚くんや難波弘之さんにも参加してもらったし、サックスもまだ勝田くんだったね。『SEASON』以降だいぶお客さんが変わったけれど、このライブでお客さんの層はまたかなり入れ替わった感じがしたよ。
─── この頃から長戸さんが確立させたテレビCMやドラマとのタイアップによるプロモーション手法、メディア戦略が時代を席巻することになります。日本の音楽シーンを変えたともいえる一連のプロモーション手法を長戸さんがさらに進化させ、J−POPの礎を築くビーイング黄金時代に突入します。1993年織田さんも作曲家として日本記録を樹立した年でもありますが、そのお話はまた次回伺うことにします。よろしくお願いします。
織田 了解。カラオケブームとも重なって、大きな波がやってくるんだけど、その辺はまた次回だね(笑)。
─── 次回更新は10月3日(水)を予定しております。どうぞお楽しみに
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