─── 先週はプロデビュー前夜までの織田さんの話を伺いました。大学入学時にはすでにプロのミュージシャンになることだけを考えていたということですが、すぐに音楽だけで暮らしが成り立ったのでしょうか?
織田 全然(笑)。デビューしてからも給料制の契約じゃないんで、仕事がなければいろいろアルバイトしていました。
─── どんなアルバイトですか?
織田 まず大学に入学してちょっとしてから、あるスナックでボーイさんのアルバイトをやってみました。18歳の頃です。そこに「弾き語り」の先生がいて、ギターで歌ったり、お客さんのリクエストにあわせて伴奏したりしていたんです。その先生の仕事ぶりを見ていて、なんだかボーイの仕事は割が悪いと思って(笑)向こうは先生、先生と言われて、酒をおごってもらえるのに、かたやこっちはずっと立ちっぱなしだし、怒鳴られっぱなしだし、絡んでくる酒癖の悪い客の扱いも大変だし(笑)。最初にボーイとして雇ってもらった店は1週間で辞めて、すぐに別の店で「弾き語り」を始めました。
─── 昭和40年代の映画やドラマによく出てくる「弾き語り」ですね。
織田 そうそう、当時パブやクラブ、スナックには必ず弾き語りがいてね。全国で数万人はいたんじゃないですか。お客さんのさまざまなリクエストに応えて自分で歌ったり、あるいは歌いたいお客さんのキー(音程)に合わせて伴奏したりしていたんですよ。銀座あたりで売れっ子の弾き語りになると、高級店を掛け持ちで回ることが出来たから、真剣にその仕事をやると当時でも月40万〜50万円は稼ぐ人もいたようです。ちゃんと弾き語りのプロになってコツコツやったら、俺も店の一軒も持てるようになるかな? なんて切ない淡い夢をみた瞬間(とき)もあった(笑)。
─── 当時どんな曲を演奏したのでしょうか?
織田 俺が弾き語りをやっていたのは、 お客さんの年齢層が比較的若いお店だったので、ボブ・ディランを演奏しても良かったし、でもやっぱり日本のフォークソングや歌謡曲が圧倒的に多かったね。アリスの「帰らざる日々」が盛り上がる曲だったなぁ。♪バイバイバイ、私のあなた♪っていうあの曲です。他にはさだまさしさんの曲もリクエストが多かった。歌の上手い人は「サントワマミー」や「ろくでなし」「夜の銀狐」あたりを歌いたがって、よく伴奏しました。最後は「そっとおやすみ」で締めるのがお決まりのパターン(笑)。風の「22歳の別れ」やイルカさんの「なごり雪」もずいぶん演奏しました。あとは石原裕次郎さんも多かったし、演歌は八代亜紀さんとかクールファイブとか。譜面が無くても、自分が聞いた事のある曲なら、だいたいどんなジャンルでも見当でコード進行を当てながら、それなりに弾いていました。
─── 洋楽はどうでした?
織田 あんまりリクエスト無かったね。ジョン・デンバーの「カントリー・ロード」は歌ったかな。
─── 弾き語りのアルバイトはどれくらい続けたのでしょうか?
織田 ちょうど一年くらいですね。18〜19歳。徐々にレコーディングの仕事も増え始めたので、いい頃合いかな、と。でも今思えば、ちょうどその頃カラオケが普及し始めたんですよ。働き出して1年くらいで、その店にも「8カラ」って呼ばれる大きなカセットみたいなヤツをガシャンと入れる機械が導入されて…。そうしたら、あっという間にお客さんは皆カラオケで歌いたがるようになったんです。その後どこのスナックに飲みに行っても弾き語りの人達はいなくなって。全国に数万人はいたと思われる「弾き語り」の仕事も一気に廃業に追い込まれましたね。もしあの時、俺が真剣に弾き語りのプロを目指していたら、と思うとぞっとします(笑)。それくらいカラオケの勢いは凄まじかったなぁ。世の中の人はこんなに自分でマイクを持って歌いたかったのか、と。でも弾き語りの仕事は一年で良かったと思います。弾き語りや「ハコバン」って呼ばれるキャバレーやバーで演奏する仕事って、基本は「お客様のお邪魔にならないように」っていう部分があるから、長く続けるとどうしても地味になるし、歌や演奏が荒れるんです。そうは言ってもこうした経験もとても勉強になった、そんな一年であることには間違いありません。
─── その頃、作曲家として活躍していた長戸大幸さんに出会ったと…。
織田 北島健二の紹介で出会い、スピニッヂ・パワーにコーラスで参加させてもらって…という話は先週もしたけど、大幸さんは弦の譜面もキチンと書ける、ちゃんとした音楽家だったし、音楽以外でもいろいろアドバイスしてもらいました。とにかく情熱的でパワフルな人でね。大学をやめて、プロになろうと思っていた俺を見て、自らウチの両親を説得しに訪ねてきてくれた。「哲郎君は音楽の世界で必ず成功しますから、僕に預けてください」と力強く話していただいたおかげで、大反対だった両親も少しは安心したようだったし。プロとして音楽に携わる仕事もいろいろと紹介してもらい、それが縁になって、ビーイングという音楽制作会社の設立に参加させてもらうことになりました。六本木の小さなマンションからのスタートでした。社員も二人くらいから出発したと記憶しています。
─── その頃ひとり暮らしを始め…
織田 渋谷と代官山の中間くらいに名前は「マンション」だったけれど、まあ古いアパート借りて、一人暮らしを始めました。あの辺も今とは違って、長くそこに住んで個人商店を営んでいる人も多かったし、繁華街からちょっと外れただけで、鄙びた感じのある街並でした。もちろん当時の俺は貧乏暮らしだったけど、仕事に行く時に便利な場所にしたかったんだよね。交通費掛からないし(笑)。六本木くらいだったら、平気で歩いて通ったよ。しかも24時間いつでも動き回るためには、風呂付きであることも必須条件だったし。トータルで収支のバランスを考えるといい場所、物件でした。
─── 独身時代、食生活はどうでした?
織田 とにかく米さえあれば、あとは海苔の佃煮で2週間は乗り切れた(笑)一週間で食費300円なんて時もあったから…(笑)さばの缶詰も重宝したなぁ。今でもあの頃の値段覚えていますよ、80円だった(爆笑)ところが実家から飼っていた猫を連れてきた時、猫のエサ用に買った缶詰が120円でね(爆笑)ちょっと切なかったねぇ(笑)。若い時って、それでも結構何とかなるもので、貧乏生活もそれなりに楽しめるものです。
─── やがてプロとして、レコーディングや作曲や編曲(アレンジ)、CMの仕事も徐々に入るようになる…と生活に変化はありましたか?
織田 本来、食道楽だったもので、CMの仕事やプロとしての仕事である程度まとまったギャラが入ると友達連れて、まったく身分不相応なお寿司屋さんや美味しいものをよく食べに出掛けました。今でもよく覚えているのは乃木坂のステーキハウス ハマという有名なお店に行って、二人でお勘定が6万円なんて時もあった。当時はまだ肉も食べていたし(笑)。それでお金を使い果たして、あとは海苔の佃煮で1週間なんてことはしょっちゅうあった(爆笑)
─── そしてプロデュースユニット「WHY」が誕生するわけですね。ユニットという形態の先駆け的存在だったと…。
織田 21歳の頃ですね。いまではユニットという概念も世の中で普通に理解されるよね。でも当時はそうはいかなかった。敢えてバンドではなくユニットという形態で、まずアルバム「WHY」をリリースして、レコーディングを中心に活動が始まったわけですから…。主に俺がボーカルと作曲及びアレンジ、北島健二がギターとアレンジ、長戸秀介が作詞、という珍しい編成で。ようするに作詞作曲アレンジ、コーラス、ギターまで責任もってやります、というあくまでレコーディングにおけるプロデュースワークを最初から念頭に置いたユニットです。今ならきわめて把握しやすい概念だと思うんだけどね。これが当時は音楽専門誌のインタビューでも、ベースやドラムがいないという事で「フォークですね?」と言われたり(笑)。事務所もまた出来たばかりでスタッフもみんなプロモーションもどうしていいかよくわからないもので、アイドル雑誌で愛敬を振りまいてみたり…。TBSで夕方放送されていた人気番組の「銀座NOW」や日本テレビの「紅白歌のベストテン」に出演させてもらったけれど、なかなかアルバムのセールスには結びつかなかった。地方のデパートの屋上でサイン会も開いたけど、お客さんが一人も来なくて、身も心も凍えそうになったことも…(笑)。
─── WHYの音楽性は今でも優れたものだと思いますが…
織田 ポップなメロディとハードロックの融合というアイディアは今となってはきわめて当たり前のものになりましたね。ただ先駆けとしてやっていく気合いも足らなければ、まずその前に人として未熟過ぎた、としか言いようがないです。それでも試行錯誤を繰り返しながらも、ライブを重ね、徐々にお客さんも増え始めてきた頃に大怪我をしてしまってね。夜中に青山墓地で北島と自転車二人乗りで遊んでいて、そのまま階段から転げ落ちて、北島は腕の骨を、俺は肋骨を骨折。それで何ヶ月もライブが出来なくなってしまった。まったくプロ意識のカケラもないあきれ果てたヤツらでした。俺が事務所の社長だったら、蹴りの一つも入れてやりたいような事件だったけど、その時大幸さんにはそれほど怒られなくて、むしろ温かく支えてくれた。うーむ。やっぱり俺なら蹴り入れるな、そんなやつら(笑)。骨折した場所に(笑)。
─── 当時のライブには難波弘之さんやそうる透さんも参加されていたと…。
織田 WHYの形態だとTVに出演するにしても、ライブをやるにしても、バックのミュージシャンが必要になるわけです。難波さんをはじめ、参加してもらったミュージシャンのギャラは俺たちがアルバイトをして捻出していました。彼らはすでに売れっ子ミュージシャンでしたが、直接交渉でお友達価格にしていただきました(笑)。彼らに払うギャラの為に北島は朝も暗いうちから築地に真面目に働きに出掛けて、俺も渋谷の駅前でビラ配りをしたり、ショー・ウインドウのディスプレイやデパートの催事場で売り子をやったりと必死にお金を工面していました。それでもライブはやりたかったし、いろいろ短期のアルバイトを経験しました。もともとルーティン・ワークは苦手だし、学校がとにかく嫌いだったので、どうせまともに就職して生きていけるわけがない、と自己分析していたし…。そういう状況だからといって不安になる、ということもなかった。いろいろな経験は楽しくもあり、とは言ってもギャラを払わずにライブが出来るようになりたかった。活動すればするほど、忙しくアルバイトしなければいけない状態はど〜うなの、と(笑)。
─── そして「織田哲郎&9th IMAGE」の誕生につながるわけですが…ところで9th IMAGEとはどういう意味ですか?
織田 add9th(アド・ナインス)というコード(和音)が好きでね。ドミソ(C)でいえば、レの音だね。1970年代後半から世界中で特によく使われるようになった気がするな。それをバンドの名前に付けました。
─── それにしても豪華なメンバーが集まったものです。サックス古村敏比古さん、ギターが北島健二さん、ベースはのちにBOØWYに参加される松井常松さん、バービーボーイズに参加した小沼俊明さんがドラム、キーボードは鈴木JUN1さん、サポートメンバーには難波弘之さんもいた伝説のスーパーバンドです。
織田 「WHY」でも結局ライブをやらなければいけなくなったので、それだったらバンドにしよう、と。俺らバンドだから、という事でギャラ払わなくてすむ(笑)。というのもあるけどそのときは当然本気でみんなで売れよう、と思っていたんですよ。でもほんと皆有名になったよね。9th IMAGEの後で(笑)。当時は全員アルバイトをしたり、学生だったり、誰も音楽だけで食べていけてない。俺も米軍キャンプにドラマーとして演奏しに行ったり、ビラ配りのバイトしたり、いろいろ大変だったけれど、皆才能のあるミュージシャンだったし、俺も全力でこのバンドに取り組んでいました。出会いには恵まれているよね。ロックン・ロールからバラードまで小手先の器用さではなく、パワーもあったし、グルーヴ感のある音楽を演奏していたと思うよ。
─── 今週もそろそろ時間となりました。「織田哲郎&9th IMAGE」結成以後、それからの織田さんのお話はまた来週ということで…。よろしくお願いします。
織田 了解です。
─── 織田哲郎ロングインタビュー第9回は6月20日(水)夜、更新予定です。また織田哲郎LIVE2007[One Night Stand]の日程、お問合せ先は以下の通りです。チケット好評発売中、お求めはお早めに!
日時 |
場所 |
お問い合わせ先 |
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6月28日(木) |
大阪 バナナホール |
サウンドクリエイター TEL:06-6357-4400 |
好評発売中 |
6月29日(金) |
名古屋 ボトムライン |
サンデーフォーク TEL:052-320-9100 |
好評発売中 |
7月6日(金) |
東京 SHIBUYA AX |
ディスクガレージ TEL:03-5436-9600 |
好評発売中 |
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