─── シングル2枚、アルバム「Day and NIGHT」を発表した『織田哲郎&9th IMAGE』で目指した音楽はどういうものだったのでしょうか?
織田 長い目でいろいろ先の事を考えていたんですよ。まずはシンプルなロックをやりながらバンドとしてロックの基礎体力をつけたかった。なんか当時日本人のロックの演奏ってどうしても小さくまとまるなあ、と感じていたんです。だから将来はソフィスティケイトされた方向へ徐々に向かおうとは考えていたけど、まずはパワフルなグルーヴを、という事で。こぢんまりとまとまらないように、かといって単に力任せというわけでもなく、と。そう考えたのには理由があって、当時俺はアルバイトで、米軍キャンプのライブにドラマーとして参加した事があるんですよ。これが45分のステージを一晩に6回が基本でして。アンコールを入れると7〜8時間は演奏していた。その間客のテンションは上がりっぱなし(笑)そんな長い時間、観客は飲むわ、叫ぶわ、喧嘩するわ…そりゃあもう大騒ぎ(笑)。恐ろしいことに連中は、それだけの時間飲み続けても倒れるどころか、どんどん騒ぐ声が大きくなる一方なんです。基礎体力をはじめ、全ての面でパワーの差を感じてね。ロックはこいつらの音楽なんだなあ、とめげました(笑)。これはもうレコーディングや演奏の技術の差ではないと…。とにかくバンドの各ミュージシャンのベロシティ[注1]の最大値を上げたかったんです。まとまった演奏とかっていうのはそれからだな、と。
[編集部注:文中にある「ベロシティ(=velocity)」は音の強弱レベルを指します]
─── でも活動は約一年だった。
織田 そうだね。なんだかやることなすこと全て上手くいかなかった。ちょうど天中殺だったし(笑)いざライブという時にメンバーの一人が長期入院して、俺が代わりにキーボードを務めることになって…、今度は俺が練習用に借りたスタジオに置いてあった鍵盤の凄く重いフェンダー・ローズ[注2]で、急に練習をし過ぎたものだから両手とも腱鞘炎になってしまって。箸持つだけでも痛くて、食事も一苦労でした。
[編集部注:フェンダー・ローズ(=Fender Rhodes Piano)と呼ばれる73鍵仕様の電子ピアノのことを指します]
─── 解散の原因は?
織田 俺の人間としての器の小ささ。それにつきます。もともと人と何かをやる、という事が苦手なんですよ。団体スポーツは出来ない性格です。バスケット好きだったけど(笑)。メンバー間で不和が生じたりしても、そういうの、どうにもできないんです。半年くらいで、いろいろとうまく回らなくなって、活動休止みたいな状態で途方にくれていました。北島はソロ活動やスタジオワークが忙しくなって抜ける事にしたし、その頃同じ事務所にいた氷室京介君がバンド(のちのBOØWY)を立ち上げようとしていたんで、もともと氷室君と一緒に上京してきた松井常松には一緒にやったら、と。他のメンバーもそれぞれ新しい道に…。その後、皆プロとして活躍し、有名になっていったので、ホッとした部分はありました。
─── その後、織田さんはCM音楽の制作や他のアーティストへの楽曲提供が増えてきた…。
織田 ボーカリストとして、トラクターやトラックのコマーシャルでシャウト系のCMソングを唄ったり、先日「Dのゲキジョー」でも紹介されたけれど、青森にある桃川酒造のCMソングを作詞、作曲して歌ったり。♪It's so nice, 桃川♪って、日本酒にしてはやけにポップだし、斬新だったよね。久しぶりに聴いたけれど、ただの織田哲郎なポップスだった(笑)。他のアーティストへの作曲の依頼や編曲の仕事も増え、村田有美さんや三原順子さん、舘ひろしさんに楽曲提供やアレンジの仕事も請けてました。
─── 舘さんのツアーにも参加したそうですが。
織田 もともと北島(健二)がギターを弾いていて、彼のトラ(=代役)でワンツアー参加しましたね。
─── どうでしたか? 舘さんのツアーは…。
織田 もともとロックンロールが大好きだし、というかロックンロールのギターを弾いている事が一番好きなので(笑)、舘さんのツアーにギターとコーラスで参加するなんて、最高ですよ(笑)純粋に楽しめました。でも困ったことに当時俺は一番の若手だったくせに上下関係の意識といったものが希薄で、いろいろ先輩のミュージシャンに意見をしたりして、「そこは8ビートがいいんじゃないか」とか「そこにチョッパー・ベースはないでしょう」とか(笑)。トラ(=代役)のくせに、とっても生意気だった。
─── 当時いろいろなロックバンドのライブを見に行っても、ベーシストはチョッパー・ベース、ギターはアーム奏法がやたら流行っていたような気がします。
織田 そうだね。そこでチョッパーはないだろうって。ロックンロールだってのに(笑)。でも大人になった今にして思えば、もっと如才なくやれよ、と反省しております(苦笑)。まあ年齢とか立場とかで相手によって態度変えるのは苦手なんですよ。だから若い間はよく生意気だ、と言われました。最近どうかすると腰の低い人だと言われます(笑)。まわりに俺より若い人が多くなったもんで(笑)。その上、若い頃は視野も狭くて融通が効かず、周囲に合わせることが下手でした。舘さんに調整役として間に入ってもらって、気を使わせるような事態もありましたね。舘さん、ホント、いい人でね。典型的なBOSSキャラの、ちょっといない魅力を持った人でした。いつもおしゃれで。
─── 当時も今も美しい輝きを放つ、カッコイイ大人の代表です。さすが舘さん、素敵です(笑)。
織田 いやホントに。 舘さんのライブリハのときに、20歳そこそこの俺が短パンに草履を履いて、ギター担いでスタジオに行ったら、「織田君、僕のリハにそういうカッコで来ないでくれたまえ」って言われて(笑)、それに俺が「ハイハイ」って答えたら、「ハイは一回でイイ」って、ピシッと叱っていただいて。今なら分かります。小僧、「ハイハイ」はないだろう(笑)人としての大切なマナーや礼儀作法を教えていただきました(笑)。
─── ところでミュージシャンのなかの上下関係ってどうでしょうか?
織田 メタルやビジュアル系のバンドとかJAZZメンなんかは今でも特に上下関係すごく厳しいんじゃないかな。なにかモノを一緒に作っていく過程では、年齢や肩書き、先輩後輩は関係ないと俺は思っているけれど、でもやっぱり最低限人間として必要な部分は、どの社会でも一緒だよね。最近は俺も腰が低いとかまるくなったとか言われるけど、根本は若い時からあんまり変わってない(笑)。9th IMAGEを解散することになって、当時自分のなかではっきりしたことは「人には向き不向きが確実にある」ってことだね。俺はいまだに、さまざまな人とうまく付き合うということが苦手です(笑)。結局当時の俺は人と関わること、そのものに疲れてしまっていてね。それからの俺はちょこちょこと楽曲提供やCMの仕事はこなすものの、2年くらいミュージシャンとしては死んでいたね。
─── 転職も考えたのでしょうか?
織田 人と接する事が必要な職業はダメだな、と思いました。その後グジャグジャなロカビリー・パンクのようなバンドを組んで、ノイズを撒き散らすだけのストレス解消の道具でしかないような酷いライブを少しの間やってみたりしていたけど、もうやめよう、と。完全に音楽をやめようと思ってね。もともと絵が好きだったし、漫画や絵画みたいな、一人で人と会わずに作品を作れるような仕事につきたいな、とか、子供の頃から占い関係が好きで、真面目に占いを追求しようかな、とかも考えました。
─── そんな織田さんがミュージシャンへの道を諦めずに、ソロデビューに向かわせたキッカケは何ですか?
織田 分厚いメガネをかけて、髪も無精髭も伸ばしっぱなし、汚い風体で歩いている時、代々木の街でフラッと入った喫茶店で、ある男性の占い師にたまたま占ってもらったことかな(笑)。
─── その占い師には何と言われたんですか?
織田 「あなたは音楽や芸能に関わる仕事に向いている」って・・・、どう見てもそんな事やっていそうもない風体の、その時の俺に(笑)。ビックリするよね(爆笑)。あまりにキッパリと真顔で断言されちゃうと、まさに音楽をやめようと思っていたわけだけど、気になるじゃない(笑)。当時占い自体にすごく興味があったわけだし。それで、そのおじさんの前に座って、3時間近く話し込んでしまったのよ(笑)。そこで「もうミュージシャンを辞めようと思う」って話したら、「絶対辞めてはいけない」って、再びものすごく強い口調で断言されてね。話を聞いたら、彼は俺と同じ魚座のA型で、昔ミュージシャンだった。これも何かの縁だよね。不思議な出会いだったね。そこまで言うんだったらもう一度考え直してみよう、と思ったんだ。それから二度とその占い師とは会うことなく、今日に至っています。
─── 偶然とはいえ、「縁」を感じる不思議な出会いですね。そうでなきゃ、数々の名曲も世に出なかった…。
織田 ホントそうだね。それがキッカケでもう一度音楽をやるにあたって、スタッフやメンバーに言われることを中途半端に聞き入れたり、納得していないのに、とりあえずやってみたりということはもうやめよう、と思ったんだ。そんな事をしてしまうとつい人のせいにしたくなるしね。自分の好きな音楽を好きなようにやろう、と開き直って、自分が納得できるように、自分で決めて、その結果はすべて自分で責任を取る…、そういうスタイルで仕事を進めようと固く心に誓いました。
─── その時不安は?
織田 あまりなかったですね。現実的なことはあまり関係ないというか、もともと画家になろうと決めた中学生の時に、一生なんとか三畳一間でも暮らしていければ、と覚悟していたくらいですから(笑)。もしどこのレコード会社も自分のやろうとする音楽を支持してくれなかったら、一人で自主制作盤を作ってライブハウスを回ればいいし、ミュージシャンが誰も気に入ってくれなければ一人でギター持って歌えばいいし、と考えたらすっきりしました。デモテープを聞いたCBSソニーから是非ウチでやりたいというオファーがあり、所属していた事務所の社長である大幸さんともいろいろなことを話して、その答えの一つがソロデビューだったし、もう一つは友好的にビーイングから独立して、もう一度「自分」というものを作り直そうと決心したことだね。独立後もビーイングの社長である大幸さんからはありがたいことにいろいろな仕事を発注していただきました。
─── そして1983年12月19日、自らの事務所「ハッスル・ミュージック」設立へとつながっていくわけですが…会社の名前の由来は?
織田 オフィシャルサイトの[DIARY]にも書いたけれど、少ないながらも集まってくれたスタッフと、オールナイトで植木等さん主演のクレージー映画3本立てとかを観に行くのが当時流行っていてね。その映画に出てきた「ハッスルコーラ」という名前が気に入って…(笑)。クレージー映画はマジで勇気をくれるのよ。植木さんの日本晴れのような笑顔は観るたびに俺の中にあった鬱陶しい何かを必ず軽くしてくれたしね。それで「ハッスル・ミュージック」と命名しました(笑)。
─── 設立当初は苦労も多かったのでは?
織田 スタッフもいつも給料が出るか出ないかわからないような事務所によくいてくれたと感謝しています。俺も含めてみんな若いから、学園祭みたいなものだったね。お金は無かったけど、情熱だけは人一倍旺盛に持っている人間が多かったし、夢や希望はやたら大きかった(笑)。スタッフもミュージシャンもなにかとよく集まって、ウチにもよく遊びに来てくれていました。いつも人が出入りしていて、ゴロゴロしていたり、4人揃うとマージャンが始まったり…。笹路正徳さんや氷室君、松井君もよく来ていたよ。マージャンの腕は皆大差なかったな(笑)。俺が一番生活掛かっていたから、真剣さが違っていたけど(爆笑)。
─── それから織田さんは毎年ソロアルバムをリリースしていくわけですが、同時に楽曲提供やプロデュースの仕事も増えていく。水谷豊さん、ビートたけしさん、アン・ルイスさん、SHOW-YA、秋本奈緒美さん、亜蘭知子さん、ブラック・キャッツ…。衰えることのない旺盛な創作生活が始まります。
織田 でも自分のレコードがとにかく売れない(笑)。ライブを毎年結構な本数こなしていたので、ライブハウスから徐々に観客も増えてきて、やがてホールクラスのライブが出来るようにはなっていったんだけど。『New Morning』『Night Wave』『LIFE』と毎年アルバムはリリースするものの商業的な成功というには程遠いものでした。要は当時織田哲郎本人に関して言うと、セルフ・プロデュース能力に問題があった(苦笑)。他人のことはよく見えるのに、自分のことになると、どうも上手くやれない。結局自分の中のプロデューサー織田がいくらこうした方が良いと言ったところで、わがままアーティスト織田が言うことを聞かない。とはいえ、そのおかげで自分にとって音楽療法による治療をきちんとやってこられた、とも言えるんだけどね。
─── 今週もそろそろ時間となりました。来週はいよいよソング・ライターとしての成功を収める感動の瞬間など、1985年以降のお話を聞かせて下さい。
織田 了解。でもこの連載、来週最終回じゃなかったっけ?(爆笑)
─── そうでした(笑)。このペースではとても終りそうにありません(笑)。そこでご相談なんですが・・・、織田さん、連載、延長しましょうか?
織田 ハハハハ、そうだね、まだまだいけそうだね…。来週までに考えておきましょう(笑)。
─── よろしくお願いします。いよいよ織田哲郎LIVE2007[One Night Stand]も迫ってきました。
織田 必ず楽しんでもらえるように、全力で準備に励んでいます。期待して下さい。
─── それでは次週どうなる?この連載。織田哲郎ロングインタビュー第10回は6月27日(水)夜、更新予定です。ライブの日程、お問い合わせ先は以下の通りです。それでは皆さん、また来週…。
日時 |
場所 |
お問い合わせ先 |
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6月28日(木) |
大阪 バナナホール |
サウンドクリエイター TEL:06-6357-4400 |
好評発売中 |
6月29日(金) |
名古屋 ボトムライン |
サンデーフォーク TEL:052-320-9100 |
好評発売中 |
7月6日(金) |
東京 SHIBUYA AX |
ディスクガレージ TEL:03-5436-9600 |
好評発売中 |
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