─── 2007年11月14日(水)、今日は織田さんのニューシングル『月ノ涙』の発売日です。東海テレビ制作・フジテレビ系列放送昼の連続ドラマ「愛の迷宮」主題歌として制作されたわけですが、まず『月ノ涙』の聞きどころからお聞かせ下さい。
織田 まず番組スタッフとの打ち合わせの中で膨らませたイメージを元に作詞、作曲をしました。自分で編曲したバージョンは「melodies」からの流れを汲んだ音作りで、小松亮太さんのバンドネオンと絡んで、いい感じに仕上がったと思います。Crescente Versionの方は「坪口昌恭TRIO」(piano坪口昌恭 wood bass菊地雅晃 drum藤井信雄)による少々アバンギャルドなジャズバージョンです。アレンジ(編曲)は坪口さんにお願いしています。どちらもアダルトな、いい味出ている仕上がりになりました。こういうダークな色合いの作品を自分のシングルで出した事はないですね。今回はなにしろドラマがダークですから(笑)ダークな渋みを楽しんでいただければ、と思います。
─── 本日発売のシングル、ライブ、TV番組出演とファンの皆さんも楽しみが増える今年の秋冬ではないでしょうか。さて、前回は1993年織田さんが作曲家としてCDシングルセールスの驚異的な日本記録を達成した年のお話を伺いました。今回は1994年、年明け早々から全国9カ所で展開されたコンサートツアーのお話からお聞かせ下さい。
織田 了解。この年のライブツアーも十数人編成で、大所帯だったね。ギターは葉山たけし、サックスは勝田くん。コーラス、ブラスセクションもあり、賑やかな編成でした。札幌、仙台、東京、埼玉(和光市)、名古屋、大阪、広島、福岡など全国を回りました。この時は高知でもライブをやったんじゃないかな。もともとこんなライブをやってみたい、と初めて感じたレコードは中学生の頃に聴いたJOE COCKER with Mad Dogs & Englishmenというライブアルバムで、確か30人位の大所帯だった。ただその中でボーカルのJoe CockerではなくてバンマスのLeon Russellになりたかったんだけど。でもまあある程度大所帯での賑やかなツアー、という夢はかなえたね。
─── ギターの葉山たけしさんとの出会いはどういうものだったのでしょうか?
織田 ハッスルミュージックの時に、それまで一緒にやっていた北島健二がいよいよFENCE OF DEFENSEの活動に本腰を入れるという事で、ギタリスト募集の広告を出した時に応募してきたんです。ギタリストとしてはもともとブルースや南部系の音楽、まあちょっとイナタい感じのものが得意だったんだけど、一緒にやり始めてみたら実はすごく器用で、どんなジャンルにも対応が早いし、新しいものを取り入れようとする貪欲な姿勢があった。それはギターだけじゃなく打ち込みやアレンジに対してもね。それでTUBEのアルバムを制作していた頃にアレンジを任せたりするようになって。それからは随分良いコンビネーションで仕事が出来たと思うよ。
─── 織田さんが作曲したものに葉山たけしさんがアレンジャー(編曲家)として関わった大ヒット曲も多い。
織田 彼が編曲したもののなかでFIELD OF VIEWの「突然」や「DAN DAN 心魅かれてく」なんか特に好きだな。彼はとにかく見極めが早いんですよ。そこがプロのアレンジャー向きですね。俺みたいに一曲を一ヶ月も二ヶ月もいじったりするような性格じゃない(笑)
─── FIELD OF VIEWの二曲はいずれも詞は坂井泉水さんですね。1994年の楽曲提供を改めて振り返ると、ZARD「この愛に泳ぎ疲れても」「あなたを感じていたい」WANDS「世界が終るまでは…」DEEN「瞳そらさないで」とこの年もメガヒット連発でした。
織田 「この愛に泳ぎ疲れても」はヨーロッパ歌謡曲的なメロディーと坂井泉水さんの詞、声の質感がよくマッチしたと思うよ。いろいろなものがうまく掛け算になって、相乗効果が良い方向に出た作品ですね。この曲の場合、ZARDの曲としては珍しい曲想だったし、詞の内容、世界観も異質なものだったけど、それでも多くのファンに受け入れられたよね。それまでは爽やかかつナチュラルで、「負けないで」に代表されるように前向きな作品が多かったけど。
─── 「この愛に泳ぎ疲れても」は2006年に織田さんがアルバム「melodies」でセルフカバーしたバージョンも小松亮太さんのバンドネオンと相俟って、新しい輝きと深い味わいがありました。「ヨーロッパ歌謡曲的なメロディー」という表現は面白いですね。「歌謡曲」という言葉を誰が発明したのか分かりませんが、素晴らしい言葉ですよね。
織田 そうだね、「歌謡曲」。ホント、良い言葉だと思うよ。それに比べるとJ−POP? 何だか浅く感じる(笑)。
─── 話がちょっと逸れますが、歌謡曲といえば、日本を代表する作詞家[注1]阿久悠さんの詞に織田さんが曲を付けたことが一度だけありましたね。 [編集部注:作詞家セールスランキング日本歴代第1位(オリコン調べ)]
織田 俺が20歳そこそこの頃にね。村田有美ちゃんの「Mr.ロマンス」という曲で。
─── その時は詞が先に届いたのですか?
織田 どうだったかなぁ(笑)。詞と曲のどちらが先だったかは覚えてないけど、原稿用紙に縦書きでサラサラって書いた歌詞の原稿は見た覚えがある。当時そういう感じで詞の原稿が届くのを見たことがなかったし、「これが阿久悠さんの原稿かぁ、カッコイイな」と思ったよ。文字がキレイだったし、原稿用紙の升目を意識しないで、サラサラサラって書いてある感じがとても味わい深くて、額に入れて飾っておきたい感じ。阿久悠さんの詞に曲を付けたのはそれ一回だけだったね。その後、阿久悠さんとは仕事上の接点はなかったのは残念です。それ以降の10年、20年というのは俺にはロックやポップス色の強い作曲家としてのイメージがあったから演歌方面からの注文はほとんどなかったけど、阿久悠さんの書いた詞でちゃんとした演歌を書いてみたかった。
─── 織田さんが書く曲、メロディーと相性の良かった作詞家というと誰ですか?
織田 坂井泉水さん、上杉昇君。亜蘭知子。巨匠でいえば、松本隆さんも印象深い思い出があります。
─── 上杉さんといえば、この年名曲「世界が終るまでは…」がミリオンセラーを記録します。
織田 上杉君はなにしろ詩人として本当に才能のある人だと思うから、これからもいい作品を作り続けて欲しいな。
─── 松本隆さんとはまず1986年〜87年にかけて一緒に仕事をされていますね。
織田 そう、清水宏次朗君のアルバムをプロデュースした時だね。その時は最初に松本隆さんの書いてくれた歌詞が俺にはどうしてもしっくりこなくて。書き直してもらえないかな、と言ったらレコード会社のディレクターが「そんなこととても僕は言えません」と言うもんで(笑)俺が松本さんに直接電話しました。それで松本さんに「こういうイメージでお願いしたい」というコンセプトを伝えたら、気持ち良く対応してくれて、すかさず見事イメージに合う最高の詞に書き直してくれた。さすがでしたよ。俺も逆の立場でよく思うけど、違うなら違うとハッキリ伝えてくれた方が良いんですよ。作り手の方はそう思ってる人が多いんじゃないかな。そりゃあ、自分の作ったものにダメ出しされるとガッカリはするけど、こう違う、とかもっとこういう風にして欲しいとかちゃんと言ってくれた方がイイんだよ。いろいろ変に気を遣って、なし崩しみたいにしてしまう方が結果上手くいかないんだ。
─── 松本隆さんとは数年後KinKi Kids「ボクの背中には羽根がある」で一緒に仕事をされています。
織田 そうだね。あの詞もさすがだと思いました。
─── それでは1994年に話を戻します。世相を振り返ると、この年、政界は激動の一年でした。政党の離合集散が繰り返され、6月には自民党と社会党が連立政権を組み、村山内閣が誕生します。スポーツ界ではリレハンメル冬季五輪、大相撲では貴乃花、曙、武蔵丸全盛時代、プロ野球ペナントレースも巨人と中日による伝説の10・8ナゴヤ球場決戦(プロ野球史上初の最終戦首位同率決戦)やイチロー選手のシーズン200本安打を超える日本記録が話題に上る一方、F1・サンマリノGPでアイルトン・セナが事故死という衝撃的な出来事もありました。音楽界では小室哲哉さんがプロデュースしたアーティストが次々と大ブレイク、Mr. Children「innocent world」が日本レコード大賞を受賞した年でもあります。
織田 そう聞くと随分前のように感じるね。干支もひとまわりしている(笑)。
─── この年、織田さんはファッションデザイナー「MASATOMO」パリ・メンズ・コレクション(通称:パリコレ)にモデルとして参加されていますね。
織田 山地正倫さんのブランド「MASATOMO」との出会いは、「POP STATES(洋楽王国)」というテレビ番組の司会をやった時に衣装を借りに行ったことがキッカケです。それ以来すっかりお気に入りになって、付き合いが始まったんです。その後話をいろいろしていたら、同じ高松幼稚園出身だということが判明して(笑)。今でもなにかと「MASATOMO」の衣装を使わせてもらっています。この時のパリコレはパリの古い建物、ミュージアムのようなところで行われて、バレーボール元日本代表の川合俊一さんも出演しました。ファッションモデルは初めての経験だったし、すごく緊張して、決めのポーズや歩き方など動きが固かった(笑)。こういうショーは分刻みのスケジュールで進行するし、よく言われるように楽屋裏はそりゃもうバタバタで、慌しかった。でも面白かったし、楽しめたね。
─── 翌年(1995年)には相川七瀬さんのデビューを控え、その準備もあり、それ以外にもHollywood Motors、ロカビリーバンド「MAGIC」、「BA-JI」のプロデュース、デビューに向けての準備もあり、1994年〜95年にかけても、かなり忙しかったのではないでしょうか?
織田 当時は基本的に3時間も寝れば、ちゃんと仕事が出来たからね(笑)体力があったんだと思うよ。この年は自分のシングル「君の笑顔を守りたい/遠い夏」のリリース、他人への楽曲提供以外に、相川のデビューに向けての準備もあって、かなり忙しかった。Hollywood MotorsやMAGIC、BA-JIの準備もこの年に始まっていたから、忙しかったね。俺自身も表に出る機会が激減したし。
─── Hollywood Motorsと知り合ったキッカケを教えて下さい。
織田 彼らがデモテープを送ってきて、それを聞いて、「こりゃあ、イカしてる」と思った。それですぐに本人たちと会った。ギターの本郷信、ドラムスの井上朗の二人組のユニットでね。デビューアルバム「Hollywood Motors」、セカンドアルバム「キリンライス」は二枚とも良いアルバムだと思うよ。俺もプロデュースしていて楽しかった。ギターの本郷信は才能もセンスもあって、その後相川のアルバム制作にもちょくちょく参加してもらっています。数年後彼は「THE TRANSFORMER」に変身することになったけど(笑)
─── ロカビリーバンド「MAGIC」をプロデュースするキッカケは?
織田 クリームソーダの山崎眞行さん(PINK DRAGON代表)からの依頼です。山崎さんからは「織田君、何とかしてよ」って、時折そういう依頼が舞い込むんですよ(笑)。「BLACK CATS」の時もそう。メンバーがやめちゃったとかそんな時ばっか(笑)まあ俺は元々ロカビリーやロックンロールが大好きなんで。それでMAGICのメンバーと話をしたら、純粋なロカビリーだけにとらわれず、バンドとしての枠を広げたいということだったので、打ち込みやさまざまな音楽とロカビリーとの融合にもチャレンジしました。残念ながらそれまでのロカビリーファンからはあまり好意的に受け入れられなかったらしいけど(苦笑)。でもいいアルバムでしたよ。
─── 「BA-JI」はどういう経緯でプロデュースされたのでしょうか?
織田 ボーカルの中沢晶は17〜18歳の頃から知っていたんですよ。彼女は元々10代から役者をやっていて、とにかく何をやってもセンスのある子でね。ただあまり自分からがんがん前に出るようなタイプじゃないので、バンドでやってみたら、という感じでスタートしました。BA-JIは今どれを聞いても良いアルバムだと思うよ。メンバーもみんな才能あるミュージシャン達で、俺も一緒にやっていて、すごく楽しめたんだけど、やっぱり微妙にやる気があるんだか、ないんだかわからないようなダラっとした感じでね。そこが持ち味ではあるんだけど、ちょっともったいなかったな。
─── そろそろ時間となりました。次回は相川七瀬さん、デビューのお話をお伺いします。次回更新は12月12日(水)を予定しています。よろしくお願いします。
織田 了解。神戸の皆さん、ライブでお会いしましょう。
「織田哲郎 神戸ウィンターランドLIVE」 |
日時 |
11月16日(金) 開場19:00/開演19:30 |
会場 |
神戸ウィンターランド |
入場料 |
6,300円(税込) ※入場時別途1ドリンク(500円)
全自由(入場整理番号付) ※一部立見になる場合があります。 |
チケット |
電子チケットぴあ 0570-02-9999(Pコード:273-988)
ローソンチケット 0570-084-005(Lコード:53854)
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