─── ライブツアー終了後も多忙な毎日を送る織田さんですが、ロングインタビューもいよいよ再開です。よろしくお願いします。早速ですが、織田さんが最も働いた一年、1987年から振り返ってみたいと思います。このインタビューの初回で伺ったお話と重なりますが、この一年は平均で一日2時間も寝なかったと。またTUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」の大ヒットの後、ベスト10を狙える大きなプロジェクトに次々と参加された年でもあります。
織田 この年はまず自分自身のアルバム「WILDLIFE」というミニアルバムと「SHIPS」というフルアルバムを2枚制作しています。ライブツアーは年間30本。清水宏次朗君の2枚のアルバム全てに関わり、そのほか亜蘭知子の「MIND GAMES」というアルバムの制作も全曲の作曲・編曲、歌入れまで関わった。夏には「渚のオールスターズ」の結成があり、「渚のカセット」というアルバムの制作があった。さらに楽曲提供もTUBEやTUBEの春畑君のソロアルバム、中村雅俊さんなどが続きました。この年のTUBEのアルバムには半分ぐらい楽曲提供とアレンジもしたと思う。アレンジを受け持ってレコーディングをどれだけやったかが結局忙しさを測る尺度になるという話は前にもしたけれど、とにかくトコトン働いた年だね。
─── 中村雅俊さんとは当時お会いしましたか?
織田 初めて楽曲提供した時にはお会いしていません。後にラジオ番組でお会いしています。当時は、数年後に「いつまでも変わらぬ愛を」を唄っているのは中村雅俊さんだ、なんて噂がまことしやかに流れるなんてことは思いもしなかったね(爆笑)
─── そんな噂、都市伝説のような話もあったんですか?
織田 ポカリスエットのCMであの曲が流れた当初は誰が歌っているのかがクレジットされていなかったので、多くの人は雅俊さんが歌っていると思っていたらしいよ。つい最近も『いつまでも変わらぬ愛を』を歌っているのは中村雅俊さんですよね、と面と向かって俺に言った人もいるくらいだから(爆笑)。
─── さて、この1987年は「一日というのは24時間働ける時間があるもの、と考えよう」と織田さんがこのインタビューの初回でおっしゃっていた頃ですが、二週間寝ずに働いていた頃はどんな仕事の依頼があったのでしょうか?
織田 ちょうど夏前だったと思うけど、「SHIPS」の制作が遅れて、清水宏次朗君の「$1,000,000Night(100万ドルナイト)」の制作と重なって、一日の12時間を「SHIPS」に、残りの12時間を宏次朗君のアルバムに、そんな振り分けをして二週間も寝ずに働くことになったんだよね。エンジニアの西君にその作業を付き合ってもらったけど、二人とも最後は朦朧としながらやっていたし(笑)。
─── しかもテレビのレギュラーが一本あり、ラジオのレギュラーも二本あった。
織田 「POP STATES」(洋楽王国)というTV番組のホストを一年間務めました。洋楽を紹介する番組で、特に英国のヒットチャートを紹介する番組でした。アシスタントは番組開始当初は萩原祥加さん。ピーター・バラカンさんのコーナーというのもありました。途中で番組内容もゲストを呼んで対談するというスタイルに変わり、いろいろな方をお招きしました。そのあたりでアシスタントも早坂あきよさんに代わった。ラジオはFM福岡で月二回収録があって、そこでようやくちゃんと睡眠を取るという生活パターンでした(笑)。
─── 月に二回だけちゃんと寝るというのも凄い話です。どうやったらこれだけ多くの仕事をこなせるのでしょうか?
織田 ヤケクソだったかもしれない(笑)ホント寝ないで仕事していたので、その頃の記憶って、実はあんまり正確に残ってないのよ(笑)。仕事でも時々変なことしているし、何でこんな風にしちゃったの、なんてことがね(笑)。
─── テレビ番組での対談相手にはどんな方がいらっしゃったのですか?
織田 前川清さん、トランペッターの近藤等則さん、浜田麻里さんを番組にお迎えしたのは覚えています。いろいろなジャンルのいろいろな人が来てくれましたよ。
─── テレビのホスト役って、どうでしたか?
織田 なんにでもチャレンジしてみようと思って引き受けたけど、どうにもダメなホストだったね(苦笑)俺は人の話を聞くのは好きだし、本来は向いてなくもないかなと今は思うんだけどね。当時俺のなかにはアーティストしての「我」をどこまで出していいのか、もしくは出さない方がいいのかという葛藤があって、ホストとしての聞き役というポジションをうまく築く事が出来なかった。中途半端だったんだよね。変に自意識過剰というか。その上いつでも寝ていない(笑)。頭の悪いダメ・ホストになっちゃっていたと思うよ。喋る事が苦手だったので練習のために、とも思って有り難くやらせてもらったけれど、一年間やってみてもちっとも上達しないので、こりゃあいよいよ向いてないなぁと。それ以来しばらく意識してTVは避けてきました。
─── ところで番組放送当時、英国のヒットチャート上位にはどんな人たちがいましたか?
織田 「ストック・エイトケン・ウォーターマン」という打ち込みのディスコ・サウンドを演奏するチームが全盛の頃で、彼らがプロデュースした「カイリー・ミノーグ」や「リック・アストリー」がよく上位にいたな。当時はイギリスで流行った曲がアメリカに行って、アメリカでウケた曲だけが日本へ入ってくるというサイクルだった。英国のヒット曲は半年遅れで日本に入ってくるっていう感じだったかな。かなり後になって、エイベックスの松浦君[注1]と初めて会ったときに「POP STATES」を観てましたよと言ってくれてね、かなりコアなファンの間でもあまり話題に上がらないこの番組を(笑)松浦君はホント洋楽好きで、しかもかなり詳しかったし。
[編集部注:松浦勝人氏(現:エイベックスホールディングス代表取締役社長)]
─── いまの織田さんで、対談番組や音楽を紹介するテレビ番組を観てみたい気がします。
織田 依頼があれば考えます(笑)。今ならはるかにマシなトークが出来るとは思います(笑)。
─── 1987年、年間30本のライブ。お客さんの反応はどうでしたか?
織田 ライブハウスはどこも満杯になり、酸欠でお客さんが倒れることもあった。演奏している方も酸欠気味でね(笑)。ホールクラスでもやっとちゃんとお客さんが入るようになってきた頃だね。まだ男性ファンが多かった時代です(笑)。髪の毛も金髪にしたり、パンクっぽい髪型にしたり、いろんな意味でロックというものにこだわっていました。
─── 翌年(1988年)30歳を迎え、ご自身のアルバム「SEASON」では曲調も含め、大きな変化があったと思いますが。
織田 それまでロックにこだわっていた自分を見つめ直して、もっと音楽にフラットに接してみようと考えた転換期でもあります。ロックにこだわる事が別にかっこいい事でもないんじゃないか、狭いところから出るのを怖がっているだけなんじゃないか、と考えるようになった。29歳になって、「あと一年でもう30歳かよ」という驚きがあって、徹底的に一年間寝ずに働いてみたことで、自分自身いろいろな意味で気が済んだ部分があってね。この一年で身体に随分ガタがきたし。それからは仕事のペースも落とし、冷静に振り返ってみた。音楽的にはロックにこだわっていた自分からひとつ枠を広げる事ができたと自分自身がハッキリ自覚できた時期だね。
─── 「SEASON」ではポップスの、しかもスケールが大きく、深みのある完成度の高いサウンド(音楽)を披露されました。
織田 「LIFE」のような曲で拳突き上げ、バリバリのロックを期待していたファンには「軟弱になっちまった」とがっかりされた面もあったんじゃないかな。でも明らかに音はやさしくなったけど、音楽としては深みが増したと思うよ。
─── ライブでの反応はどうでしたか?
織田 ライブもロックで盛り上がる事より聴かせる事に比重が移った。女性コーラスを入れて、ギターも北島健二から葉山たけしに替わった。サックスも古村敏比古から勝田一樹に。バックの編成に大きな変化もあった。この頃から明らかに女性ファンの割合が増えたね。
─── 中野サンプラザでのライブをはじめ、ホールクラスが増えましたね。中野サンプラザが多かった理由は?
織田 まず音が良かった。自分がお客として行っても、心地よかったし。当時、都内にあったホールクラスの会場では中野サンプラザが一番好きだったね。
─── 1988年はTUBEのアルバム「ビーチタイム」の制作や渚のオールスターズの「渚のカセットvol.2」をリリース。鈴木聖美さん、陣内孝則さん、SHOW-YAなどへの楽曲提供と、ペースを落としたとはいえ、まだまだ忙しい毎日だったのでは?
織田 普通に忙しかったね(笑)。でも30歳を前にした一年で無理をしたせいで、生え際もピュッと後退しちゃって、これはもう冗談じゃない、寝なきゃと思ったよ(笑)。やっぱり寝ないと必ず仕事の質も落ちる部分はあるから。何でこんなアレンジしちゃったのか?なんて、いまだに後悔している部分もあるし。
─── このロングインタビューも今後は少しペースを落として、今回はこのあたりで、1989年以降のお話はまた次回ということにしましょう。名盤「Candle In The Rain」のお話から伺ってまいります。ところで織田さん、今年はゆっくり夏休み取れそうですか?
織田 数日程度は(笑)
─── 相変わらず、お忙しいですね。体調には充分気をつけてください。次回更新は8月29日(水)夜、更新予定です。よろしくお願いします。
織田 了解!
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