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One Night
UPCH-1541 ¥3,000(税込)
One Night|織田哲郎|2007.05.23 Release
1. もう少しがんばってみよう。
2. 青空
3. 瞳閉じれば〜Let's dance〜
4. TONIGHT
5. インソムニア
6. 最後の恋
7. 真夏の夜の甘い夢
8. キズナ
9. Sunrise Sunset
10. 祈り
11. 真夜中の虹
12. 明日へ
melodies
UPCH-1517 ¥3,059(税込)
melodies|織田哲郎|Now On Sale!
1. 負けないで
2. シーズン・イン・ザ・サン
3. ボクの背中には羽根がある
4. 愛のために。
5. 碧いうさぎ
6. 突然
7. 世界中の誰よりきっと
8. この愛に泳ぎ疲れても
9. Anniversary
10. 世界が終るまでは…
11. 恋心
12. このまま君だけを奪い去りたい
Tetsuro Oda “The Long Interview”織田哲郎ロングインタビュー
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vol.6 音楽との出会い……織田さん、学生時代のお話を聞かせて下さい。

─── 6週目に突入した織田哲郎ロングインタビュー、今週からは少し趣向を変えて、お話を伺っていきたいと思います。まずは織田さんの学生時代のお話からお願いします。転居、転校が多かったということですが…。

織田 幼稚園から高校まで、入学した学校と卒業した学校がすべて違うんですよ。でも当時転校がいやだとは思った事ないですけどね。そんなもんだ、と。

─── 稀有な例ですね。とすると、いつも「転校生」という扱いであったと…。

織田 父の仕事の関係で転勤が多く、子供の頃はひとつの場所に長く住んだことがありません。気が付くと別の街に住んでいたという感じですね。東京、神戸、高松、名古屋、そしてまた東京。中学2年からロンドンに2年滞在して、帰国後は高知で2年。そのあとまた東京へ…。「転校生」という立場を数多く味わったし、当時(1970年代)では珍しい存在だった「帰国子女」という立場にもなった。大人になって、後から考えてみると、得難い貴重な経験だったと思えるけれど、当時はそれなりにいろいろな思いもあったかな。

─── 「ふるさと」という感覚はどうですか?

織田 微妙だよね。まあ、東京渋谷界隈が一番長く住んだ場所でもあるので、強いていえばそこら辺ということになるのかなぁ。両親が高知出身ということもあり、親戚も多いので、自分がいたのは2年間だけど、高知にも特別な思い入れがあります。有名なお祭り「よさこい」は今でも見にいきますよ。やっぱり「よさこい」といえば、高知です(笑)。

─── これだけ学校が変わると同窓、同期という意識が希薄になりませんか? 同窓会に呼ばれることはありますか?

織田 それがね、どこにいる時も無駄に目立つ存在ではあったもので(笑)なにせ中学一年の時に生徒会長に立候補したくらいアホでしたから(爆笑) そんな俺を周りがよく覚えていてくれて、いまでも、その当時の仲間からは、大人になってから「飲みのお誘い」などいろいろと声を掛けてもらっていますよ。今でもたまに集まります。最近は禁酒したので、お茶を飲んでいますが(爆笑)。

─── ところで音楽との出会いについてお話を聞かせて下さい。最初に楽器を習い始めたのはいつごろですか?

織田 どういうキッカケだったはすっかり忘れてしまったけれど、実は最初に出会った楽器はウチに置いてあった「ウクレレ」です。小学校低学年のことですね。自己流だったけど、コードを覚えるのは早くて、教本を見てとか、誰かに習ってというわけではなく、勝手に弄りながら、コードを見つけては耳で覚えた曲を弾いていました。1960年代後半に流行していたカレッジ・フォークと呼ばれるフォーク・ソングや歌謡曲を弾きながら歌っていました。その後ピアノを週何回か習う事になるんだけれど、まず人からモノを教わるのも苦手だったし、バイエルや教則本どおりに弾くことが好きになれず、すぐにやめてしまいました。でも小学校4年生だったかな、ブラスバンドが結成されることになると、すぐにトランペットに立候補してね(笑)自発的にやりたい事やる場合のみ、集中力を発揮するタイプだった(笑)とにかく人から強制されるのは大嫌い(笑)。それはいまでも変わらないね。

─── ギターやピアノはいつ頃本格的に始めたのでしょうか?

織田 ピアノに関しては中学に入って、ブラスバンド部の部室のピアノで遊びだしてからです。部室の片隅に古ぼけたホンキートンクのピアノが置いてあって、それを、ここでもまた自己流で(笑)いじって遊んでいるうちに演奏する楽しさが分かってきてね。イギリスに行ってからもレクリエイションルームにたまたま置いてあったピアノをよく弾いていました。要は強制されずに、自ら楽しむってことが大切なのかな(笑)。それに比べると、ギターは案外遅かったんですよ。イギリスでは一人でロックを聴きながら、絵を描いていることが多かったし、周りにギターを弾いている奴もいなかったし…。結局帰国後、高知での寮生活が始まってから、はじめてギターを手にすることになります。

─── 中学生の2年間を過ごしたイギリスはどのようなものでしたか?

織田 いわゆる日本人学校ではなく、普通の英国人が通う学校に入学しました。そこにはアラブ系、アジア系などさまざまな人種もいて、寮生活を送っていました。当時英国では寄宿舎での寮生活は普通のことだったけれど、周囲に日本人はほとんどいないし、俺以外に日本人はもう一人だけ、そんななかで生活していました。校則やマナーもとても厳しかったし、両親との面会も制限されていました。

─── もっとも多感な時期に滞在したロンドン、音楽への本格的な目覚めもこの頃だったのでしょうか?

織田 いまこうして音楽を生業(なりわい)にしたその後の自分を思うと、1970年代前半のロンドンは本当にいい時代にその場所にいたな、と思います。英国生活が始まって間もない頃に、当時イギリスのTVで一番人気のあった「トップ・オブ・ザ・ポップス」という音楽番組を観ていて、最初に印象に残ったのがT.レックスでした。その頃のマーク・ボランは本当に輝いていて、それこそグラム・ロックと名付けられたムーブメントの真っ只中にその場にいたわけです。そしてその後、俺は中学生のくせに、ディスコやライブハウスにもしょっちゅう出入りするようになる(笑)。こういう遊びはもちろん校則では禁止されていました。でも大人の世界をのぞきみるようなドキドキ感や冒険心も煽るし、危険な誘惑のイイ香りがするよね。そこで酒もタバコも覚えて。でも通うにはお金が掛かる(笑)。ところが意外にも入場料が安かった…。日本円に換算すると、300〜400円くらいで入れたし、実力のある有名バンドが出演したとしても、せいぜい1,000円くらいでね。当時の小遣いをひたすら音楽のために節約して、何とかなった(笑)。

─── T.レックス以外に印象に残っているのは、どんなミュージシャンですか?

織田 デヴィッド・ボウイスレイド…、グラム・ロック以外でもエルトン・ジョンや当時ミック・テイラーが参加していたローリング・ストーンズ、モット・ザ・フープル、プログレではジェネシスフォーカス。それとは別に、前にも話したけれど、サイモン&ガーファンクルやニール・ヤングも好きだった。ニール・ヤングの「Harvest」というアルバムは大好きでした。今でもよく聴きます。

─── ロンドン時代、絵の才能を校長先生から高く評価され、将来画家として大成すると予言されたそうですが…。

織田 そんなこともあったね(笑)。自分でも将来は画家になる、と決めていました。日本に帰る直前、校長先生から絵を譲って欲しいといわれて。実は子供にしては結構な値段で買い取ってもらったんです。俺が学校を描いたその絵は、その後ちゃんと額に入れられて応接室に飾られていたらしいですよ。

─── そして日本へ帰国となるわけですが…、帰国子女という扱い、当事者であった織田さんにとって、どんなものでしたか?

織田 帰国後、東京でなく高知で寮生活を送る事になったもので、色々とギャップが激しかった。帰国当時肩より伸びていた髪をまず丸坊主に(笑)。校則だったんで。ロンドンから来たというだけでパンダみたいなもんでした(笑)。「なんだ、目が青くないじゃないか」とか言われたり(笑)、そりゃ、そうだよね、日本人だもの(笑)。でもそれくらい外国は当時の高知の人間の感覚としては遠かったんですよ。それに英国で精神を病み始めて、帰国直前は人とコミュニケーションもとらずに一人で絵を描いてばかりいるようになっていて。しかも日本に帰ってきたと思ったら土佐弁、何言ってるか解らないし。

─── 思い詰めることもあったのでしょうか?

織田 あったね、それもかなり深刻に。でも音楽が救ってくれた。TVでも先日「Dのゲキジョー」で初めて話したけれどね。実は小学生の頃から自殺願望があったんですよ。高知の寮で、いよいよ本当に自殺を決行しよう、と思って刃物とラジカセを持って屋上に上がった。好きな音楽聴きながら死のうと思って。その時選んだのはエルトン・ジョンの「Your Song」や「ロケットマン」という曲が入ったベストアルバムのようなカセットテープだった。そのギリギリの精神状態のなかで聴いたエルトン・ジョン、これがその後の俺を変えた…。その時音楽が全部光に変換されて、俺の頭の中をものすごい勢いで洗い流していったんです。涙が止まらなくなった。その光の洪水の中で「死んではいけない」という確信が込み上げてきてね。本当にそれで救われたし、それ以降も精神的にタフな人間ではないけれど、自殺だけは絶対にしてはいけない、という思いは確信としてずっとあります。

───  その頃ギターに夢中になっていくわけですね…。

織田 そうです。高知での寮生活がギターとの出会うキッカケになりました。高知学芸高校での寮生活が始まった頃、当時はフォーク・ソングが大流行していて、寮でギターを持っている奴が大勢いました。それを借りて(笑)音楽を演奏する楽しみを味わったのが、本格的な音楽への目覚めなのかもしれない。そこからパッタリ絵は描かなくなりました。いつも誰かのギター弾いてましたね。自分のは持ってないんで(笑)。だんだん他人の曲をコピーするだけでなく、作曲もするようにもなっていって。ラジオの深夜放送を聞いたり、とにかく音楽を聴きまくっていました。それで、ますます本格的な夜型人間になりました。寮では「夜の帝王」って呼ばれていたしね(笑)しかも音楽面では勝手に総元締めのような気分でね(笑)。かなり強引に「これを聴け」というような薦め方をしていたようですよ。本人は忘れていることも多いけど(爆笑)。フォーク・ソング好きの友達に無理やり「プログレ」を聴かせたてみたり…、迷惑だったろうね、聴かされる方も…(笑)そういえばファイナルファンタジーの音楽で有名な植松伸夫君も当時同級生で、やっぱりなんかのアルバムむりやり俺に薦められた、と最近久しぶりに会ったときに言ってた(笑)。迷惑な奴ですみません(笑)。

─── 恋はどうでした?

織田 高知にいた頃というのは、いい感じにホロ苦い想い出の宝庫、そんな時期です。結局高知になじんでからはBANDも作りバスケット部もかなり熱心にやって、という具合に俺の十代の中では一番オーソドックスに青春してた一年でしたね。

─── 高知では「プロになった今でも彼を超えるシンガーと出会ってはいない」と織田さんが評価されている友人と出会ったそうですが…

織田 彼は本当に凄かった。今でも彼を超える存在とは出会っていません。彼とは高校時代一緒にバンドを組んだのだけれど、中学生の頃からソウル・ミュージックが好きな奴で、とにかく声量もパワーも凄かった。天性のシンガーでしたね。しかも当時は陸上選手としても記録持っていたから、基本の身体能力が違うというか。その後音楽の道へは進まず、働きながら一所懸命に勉強して、留学してね。今ではMBAを取得して、ビジネスマンとして活躍していますよ。とにかくパワフルな奴でした。

─── ところで勉強はどうでしたか? 転校した高校、いずれも進学校ですが…

織田 まったく品行方正ではなかったし(笑)勉強は本当にしませんでした(笑)。でもいろいろな教科で要点だけはしっかりと押さえて、試験だけは何とか乗り切っていたかな(笑)

─── 高2で転校された東京の都立大付属高校では大学生とバンドを組んだり、セッションしたり…と都立大始まって以来の高校生部員だったそうですね。その頃ギタリストの北島健二さんと出会うことになる。その後明治学院大学へ進学され、さまざまなミュージシャンと出会うことになりますね。そのあたりはまた来週伺うということでいかがでしょうか?東京に戻ってきてからの織田さんのお話を聞かせて下さい。

織田 了解。都立大付属高校では今度、ボウズの田舎もんが転校してきた、と言われて(笑)。

─── ということで、皆さん、乞うご期待です。

─── 次回は6月6日(水)夜、更新予定です。どうぞお楽しみに。


profile: 織田哲郎
<Tetsuro Oda> シンガーソングライター/プロデューサー 1958年3月11日生まれ。東京都出身。

中学時代をロンドンで過ごし、15歳で帰国。高校時代にバンドを組みエレキギターを弾きはじめ、同時にオリジナル曲の創作をはじめる。1979年にギタリストの北島健二(現FENCE OF DEFENSE、PEARL)らと共にプロデュースユニットWHYを結成し、アルバム『WHY』でデビュー。それと並行し、プロデュース業も開始する。そして1983年にアルバム『VOICES』でソロデビュー。1986年、TUBEに提供した『シーズン・イン・ザ・サン』が大ヒットし、1990年には B.B.クイーンズ『おどるポンポコリン』で日本レコード大賞を受賞。1992年には自身のシングル『いつまでも変わらぬ愛を』がミリオンセラーに。 1993年、オリコンチャート・ベストセラー作家部門において、12,404,990枚という史上最高のセールスで1位を獲得。以後、相川七瀬等を中心に様々なアーティストのプロデュースを手掛ける。日本音楽史上歴代作曲家売上ランキング第3位となる4,000万枚超えるセールス(CDシングル・2007 年3月現在オリコン調べ)を記録する日本を代表する作曲家。2007年5月23日(水)自身14年ぶりとなるフルオリジナルアルバム「One Night」をユニバーサルミュージック(株)より発表。

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