─── 1992年「いつまでも変わらぬ愛を」が大ヒットし、同曲を収録しているソロアルバム「ENDLESS DREAM」をリリース。それが織田さんにとって、復活宣言であったというお話を前回伺いました。ソロデビューからちょうど10年目。いわゆるバブル経済崩壊後、音楽業界は逆に史上空前の活況を呈することになります。世はまさにカラオケブーム、そして携帯電話も普及し始めます。まず携帯について伺います。織田さんはいつ頃携帯電話を持ち始めましたか?
織田 すでにこの頃、周りの人はほとんど携帯を持っていたんだけど、それでもなかなか買わなかった。仕事関係のスタッフから「連絡が取れなくて困る」といわれていたけれど(笑)ただでさえ旅好きでふらふら行方不明になっていることも多かったしね。結局俺が携帯を買うことになったキッカケは、仕事先に車で向かっている時に渋滞に巻き込まれ、連絡しようにも出来なくて困ったことがあって、それでようやく(笑)。でも自分から必要があって掛ける以外は電源を切っていたよ。携帯が鳴るのが嫌いでね(笑)最近は慣れてきたので、着信音はバイブにしていますが電源は入っています。持てば携帯も便利なもので、今じゃメール打つのも実はかなり早いし(爆笑)
─── カラオケの話も聞かせて下さい。当時全国的にカラオケボックスが急増、シングルCDもミリオンセラーが増えます。社会人は懇親会や宴会(とくに二次会)に、学生もコンパの二次会などにカラオケボックスを利用することが多くなった。今回お話を伺う1992年といえば、通信カラオケが登場した年でもあり、当時カラオケボックスやスナックでは織田さんの楽曲を常に耳にしていた気がします。
織田 ありがたいことに、よく歌っていただいたようです。当時大学生や社会人だった人には「いつまでも変わらぬ愛を」や「世界中の誰よりきっと」はよく歌ってもらったんじゃないかな。大橋純子さんに提供した「愛は時を越えて」は水商売関連の女性に根強い人気があったようですよ。そうそう、この年は久しぶりに舘ひろしさんにも曲書いたし。
─── 「濡れた瞳にくちづけを」も名曲です。いずれ舘さんと織田さんの共演というのはいかがでしょうか?
織田 そうだね。舘さんともまた何か一緒にやれる機会があればうれしいな。
─── カラオケ業界への貢献度という点でも、音楽家として屈指の存在ではないかと思いますが、織田さんの若き日、以前伺った弾き語りをやっていた頃といい、カラオケとは不思議なめぐり合わせですね。ところで織田さんご自身はカラオケで誰かの曲を歌いますか?
織田 実はカラオケで歌える歌が本当に少ないのよ。たまにカラオケのある店に行くことがあっても、この20年くらいほとんど同じ様な曲ばかり歌っていたし。つーか、あまりカラオケ好きじゃない。断酒した今ではそういう場所に行くこともほとんど無くなったしね。
─── さて、この頃TV番組、ドラマ、CMソング、今では当たり前になったいわゆるタイアップによるプロモーション手法が奏効し、ヒット曲を連発し始めた頃でもあります。長戸さんという類稀なプロデューサーの存在が大きかったと思いますが。
織田 TVをはじめとするメディアをフルに活用して、タイアップを取り付けた上で、楽曲やアーティストを売ってゆく。そういうプロモーション手法を徹底的にシステム化したのが大幸さんですね。毀誉褒貶いろいろあれど、それまでの音楽業界のシステムを一新したのは確実に大幸さんです。92年はそれが本格的に機能しはじめた頃じゃないかな。
─── この頃ソングライターとしての織田さんの仕事は長戸さんからの依頼が多かったのでしょうか?
織田 そうですね。大幸さんと組んでやる仕事が圧倒的に多かったね。とくに新しいことをやる時や新人をデビューさせる時はよく発注してもらいました。新しいことやいろいろなタイプの音楽をやりたがる俺の性格を熟知してくれていて、しかも創作意欲を駆り立てるように、絶妙な口説き方でコンセプトを伝えてくれるんですよ。だからいつもすごく楽しく取り組めました。直接作曲などの依頼を受けたり、レコード会社との交渉事や人に会ったりという俺自身が苦手だと思っていたことは大幸さんがすべてやってくれて、おかげでずいぶん楽になったし、音楽を作ることに専念出来たことも大きかったな。
─── 1992年の楽曲提供リストを振り返るだけでも、大橋純子さん、舘ひろしさん、ZARD「眠れない夜を抱いて」、T-BOLAN「サヨナラから始めよう」、中山美穂&WANDS「世界中の誰よりきっと」、Mi-ke「サーフィンJAPAN」、TWINZER「OH SHINY DAYS」、桜っ子クラブ花組、そして栗本慎一郎さんまで、提供する楽曲、アーティストが驚くほど幅が広い。
織田 元来俺は同じことを淡々とこなすということがとにかく苦手で、絶えず新しいことをやりたいタチなんですよ。他人にいろいろなタイプの曲を書けば書くほど、自分のやりたい音楽が絞れてくるという一面もありました。そうでないと自分自身の楽曲でいろいろとやり過ぎてしまう。そういう意味では楽曲提供の仕事はバリエーションが豊富な方が良かったし、楽しめたんだと思うよ。
─── 92年から93年は大ヒット曲連発、そんななかで、やはりご本人がメディアに出る機会はきわめて少なかった。
織田 前回も話したようにメディアに露出することが本当に苦手だったから。人前で喋るとなるとわざわざ悪印象を残してしまうような、言わなきゃいいこと言ったりして、むしろ敵を作っちゃうタイプだった。いいかげんそういう自分自身にウンザリしていたんだよね。それならば俺自身メディアに出ないほうがイイやと思っていたし、ビーイングの戦略も露出を避ける方向だったので、双方見解一致ということで。
─── 時代の寵児的存在だったにも関わらず、自らそれを拒絶するかのようでしたね。
織田 確かにブームっぽい状況だったのでそれも危ないな、と感じてました。ブームというのはそれが終ると大抵は「時代遅れの人」になってしまう。時代の寵児だともてはやされていい気になっていると、ある時からあの人はもう終わった、とか言われる。だから顔は出さずにひたすら作る音楽だけ浸透させようと思っていました。それは92〜93年には俺も30代になって、少しは世の中が見えるようになっていたということも大きいだろうね。もし20代でメガヒットがあって、急に大きな富を手に入れたり、時代の寵児的なもてはやされ方をすると、調子に乗って舞い上がってしまったり、逆にこんなはずじゃないと思ってしまって、どういう風にか、おかしくなっても不思議じゃない。そうは言っても当時を振り返ると、どんなに大人しくしていても、さまざまな風は受けましたよ。
─── いろいろな意味で強いエネルギーを持った風、大きな波がやってきて、ご自身の生活に変化はありましたか?
織田 だからというわけじゃないけど、生活は別に変わらなかった。相変わらず旅にも出ていたし、酒も飲んでいたし、ずっとそんな調子だったよ(笑)。
─── 驕らず、舞い上がらず、ですね。
織田 以前自分のDIARYでも書いたけど、かまやつさんが語っていた名言があってね「大きな波に乗っている時ほど早く潜って次の波を待つ」。それをやらないと確かに、その波と一緒に終わってしまうし、次にやってくる波に乗るのは至難の技だよね。自分が自分以上の力が出るような、調子に乗っている状態っていうのは、その後のダメージも大きい、と。さすがかまやつさん。これ、いい言葉でしょう。
─── 実際の海でも、波に乗っているときは気持ちがイイのですが、乗り続けることは出来ません。波はいずれ砕け散り、と同時に地面に叩きつけられます。砂浜といえども実際に叩きつけられると本当に痛い。
織田 俺はよく思うんだけど、人は波しか見ていない。上しか見ずに波に乗ることばかりを考えてしまう。波に乗るって、比喩としてよく使われるよね。でも大切なのは波に乗ることじゃなくて、問題は潮の満ち干や潮の流れ、海流を見究めることだと思うよ。
─── 潮の干満、海流を見究める、織田さんならではの含蓄のある名言です。
織田 大きい波っていうのはね、迂闊に乗ると叩きつけられるからね。気を付けましょう(笑)。大きなエネルギーのうねりを乗りこなすこと自体は楽しいかもしれないけど、それはなかなか難しいものです。風にも波にも無理に逆らうことなく、大事なのは流れをよく読むということでしょうか。
─── ありがとうございます。そして日本の音楽史に残る大記録を打ち立てる1993年がやってきます。今もなお多くの人に愛される名曲も数多く誕生します。そのあたりは次回うかがうことにします。さていよいよ2007年10月1日(月)からスタートしたフジテレビ系列で毎週月曜〜金曜13:30〜14:00放送の連続ドラマ「愛の迷宮」主題歌に織田さんご自身の新曲『月ノ涙』が提供されています。その制作秘話も是非お伺いしたいと思います。よろしくお願いします。
織田 了解。
─── 次回は10月24日(水)更新予定です。どうぞお楽しみに!
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