オルタード・カーボン 特別対談 リチャード・モーガン×田口俊樹
オルタード・カーボン 特別対談 リチャード・モーガン×田口俊樹
 

 

  ※日本のミステリ翻訳の第一人者で『オルタ−ド・カーボン』の翻訳者である田口俊樹氏とR・モーガン氏の対談が2004年10月ロンドンで行われた。その一部をご参考までに。

――まずご出身と年齢を教えてください。

   一九六五年にロンドンで生まれた。いま三十九歳だ。結婚? しているよ。妻はスペイン人なんだ。結婚したのは二年前だけど、かれこれ十年来の付き合いになるかな。
――執筆活動はいつ頃から始めたのですか?

  処女作を書き上げたのは一九八八年。もっとも出版できるような代物ではなかったけれどね。とにかく血なまぐさい作品で。今から二、三十年前という時代設定で麻薬密売組織と警察の抗争を描いた作品なんだけど、暴力的な描写ばかり。とても自信作とは言えない。主人公もコヴァッチではないしね。

  実は以前コヴァッチを主人公にした短編も何作か書いんだけど、まったく注目されなかった。でも今回の作品の構想を練る良いたたき台になったよ。正直なところ、これらの短編小説はこの際、葬り去ってしまったほうがいいかなと思っているんだ。さっきも言ったとおり自信作じゃないし。長編小説を無理やり短編にまとめたような感があるので。 ちなみに二作目の『ブロークン・エンジェル』も、二十ページの短編小説をベースにしているんだ。

――いつ頃から作家を志していたのですか?

  オール・マイ・ライフ(笑)。物心ついた頃からずっと。以前J・K・ローリングのインタビューを観たとき、やはり同じ質問をされていたけれど、物を書いて仕事になるなら作家になりたいと思った、と答えていたのがやけに印象的で、確かに作家とはそういう性分なんだろうと妙に納得したものだ。十一歳の頃には小学校の同級生に、僕は作家になるんだ! と豪語していた。もちろん、もっと小さい頃から絶対物書きになると心に決めていたけどね。でも執筆がこれほど厳しいものだとわかっていたら、別の仕事を目指していただろうな(笑)。十歳、十一歳の頃は、ほとんど理解できないながらも、ジェームズ・ボンドの小説を読みふけっていた。

  十二歳の頃にはトールキン、その後はマイケル・ムアコック(イギリスのファンタジー作家)を愛読した。そして十代でファンタジーを書き始めた。いわゆる「剣と魔法」モノと言われているような作品。当時十六歳だったけれど、書き始めたら筆が止まらなくなってしまって。あいにく、その時の原稿はとっくの昔に他の短編と一緒に処分してしまったけれど。語学学校の教師をしていたので引越し続きでね。トルコ、ロンドン、メキシコ。そしてまたロンドンに戻って……。十四年間も教師生活を続けていたあいだの、気に入らないことが積もり積もって爆発して(笑)、『オルタード・カーボン』が生まれたと言ってもいいかもしれない。

――『オルタード・カーボン』を書きはじめたのは?

  『オルタード・カーボン』の執筆に取りかかったのは一九九三年。それまでは短編小説を書いては雑誌に投稿していたけど、さっぱりダメで。ところが『オルタード・カーボン』を書き始めて半年後くらいに、ロンドン在住の編集者から短編をもとに映画の脚本を書いてみないかと声がかかった。結局その脚本製作に一年半から二年くらい費やしてしまって。本当にしんどい仕事だった。そして一九九五年から再び『オルタード・カーボン』の執筆を再開し、九七年にようやく完成したんだ。

  とにかく、出版業界に少しでもコネのありそうな人や、興味を持ってくれそうな人に、最初の五十ページを手当たりしだいに送ったところ、なかなか好評で、最後まで読みたいという希望が殺到した。気を良くして残りの原稿を送ったら、みんないらないと(笑)。不評でね。確かに最初の五十ページは何度も書き直しを重ねたけれど、残りの部分は詰めが甘かった。なんとか出版にこぎつけようと一年近くねばった末にようやくそのことに気づいて、スペインで一ヶ月缶詰になって残りの部分に手を入れ直した。それをロンドンに持ち帰って、九八年から九九年にかけてもう一度出版社に売り込みをかけた。 ストーリーがこりすぎていると感じる読者には、推敲前の作品のほうがお勧めかも(笑)。

  スペインでは『オルタード・カーボン』の七割近くに手を加えた。大幅に推敲して、最初に持ち込んだ出版社と同じところを回ってみたけれど、二度も相手にしてくれるところはなかなかなかった。でも、念のためSF部門から手を引こうとしていたヴァージン・パブリッシングにも原稿を送っておいたのが命拾いになった。編集者からこんな手紙が送られてきたのさ。「すばらしい作品なので是非出版させていただきたいところですが、あいにく弊社はSF部門から撤退することになりました。出版に値する会心作ではありますが誠に残念です」。これを利用しない手はないと、この手紙を大量にコピーして原稿といっしょに送ってみた。そのお陰で出版エージェントもようやく本気で『オルタード・カーボン』を見直してくれて。あの手紙が『オルタード・カーボン』が世に出るきっかけとなった。ところが(積極的に作品を売り込む自信を与えてくれた)その編集者とはそれっきりになってしまって。一杯奢らなくちゃ、と思っているんだけれど。

  出版エージェントから原稿の送り先が悪いのではとアドバイスされて、きちんと取り合ってくれそうな編集者や出版社を紹介してもらった。なかなか腕利きのエージェントでゴランツ(注:英オライオングループの出版社)にも売り込みをかけてくれて、数ヶ月もしないうちに出版契約にこぎつけた。まさにトントン拍子だったよ。十四年も悪戦苦闘したのが嘘みたいにね。ツキにも恵まれていた。ゴランツはとても優良な出版社だったし、心底SF好きなスタッフが揃っていた。出版社によってはSF部門を他部門へ異動するための腰掛け程度にしか考えていないスタッフも多いからね。その点ゴランツのスタッフは本当に良心的だった。

特集トップへ
Copyright(C)2008 Aspect Digital Media Corporation. All rights reserved.