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明智光秀(下)
桜田晋也 著
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水色桔梗の旗印が早暁の京の街を埋めつくしていた。その中で光秀の顔は輝いていた。この手で天下を大魔王から解き放つのだ。火焔の中で戦国の時代が終ろうとしていた。 絶対権力者信長は比叡山を焼き払い、一向一揆を根だやしにし、逆らう者を皆殺しにし、大魔王と称した。一方、皇太子の養い親となって譲位をせまり、天皇を越えようとし、ついには自ら神の地位にまでのぼろうとした。光秀にはそのすべてが許せなかった。そして恐れのあまり、信長に平伏する自分をも許せなかった。 |
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いかに信長に自分をあわせようとしてみても、光秀の教養と知性には、こうした悪たれ小僧めいた主従関係の中に自分の占めうる場所を見出すことはできなかった。 このような時に皆と一緒に笑い興ずるならば、織田家における自分の地位は不動なものに近づき、 [さようにいたすことが、十兵衛、その方と一族郎党のためになるのじゃ!] と心中で叫んでは見るものの、光秀の顔は笑おうとして笑いかけたその瞬間に、まるで糊(のり)がひっついたようにこわばらずにはいられない。 光秀は人肉食の卑猥(ひわい)な話題に宵越しの酒も手伝って先ほどから胃の底がむかつき、吐き気を覚えていた。 信長と直参子飼いの家臣団の結びつきの深さには、一種男色家の同志愛めいたものがあることは光秀も外から見て気づいていたが、まさかこれほどまでべったりと癒着したものであることは今回の無礼講ではじめて思い知らされた。 光秀はいたたまれずに談笑が一段落したところで、目立たぬように軽く左右に一礼して席を立った。 小用の気がないわけではないが、それよりも、嘔吐(おうと)感を催すこの場の雰囲気から少しの間でも逃れて表の新鮮な空気を吸いたかった。光秀はこの連中の話をこれ以上聞いていたならば、自分も狂ってしまいそうな気がしていたのである。 庚申待ちといえども、当然小用には皆かわるがわる出かけている。席を外してもまた戻ってくる限り問題はないはずであったが、光秀がまさに広間を出ようとしたその刹那(せつな)、 「待て、キンカン頭!」 背中からぐさりとヒ首で突き刺すような大声で信長に呼び止められた。キンカン頭というのは、光秀はこの頃、心労がたたってか頭髪が大きく禿あがったことを指したものだった。秀吉を禿鼠と称したように信長が光秀に勝手につけた蔑称である。 [いかん!信長に言上(ごんじょう)せずに席を外したことを咎(とが)める気か] 光秀が敷居のところに平伏して、 「これは御無礼つかまつりました。いささか小用を……」 と言いかけた時には信長は座をけたてて脱兎(だっと)のごとく光秀のもとに駆けよってきていた。 「うぬの過怠(かたい)は許せぬ!」 便所に立つのが過怠になるならば、世の中にまじめな人間はひとりもいなくなるだろう。 だが、そもそも因縁をつけようとする人間にとっては大義名分などはあろうはずもない。ヤクザや不良が、通りすがりの人間と目があい肩をすれあわせただけで“てめえガンをつけたな”とばかりに手を出すのと同じ心理である。 この場合の信長にとっての“ガン”とは要するに光秀が一人、主従間の話の輪に加わらず終始苦虫を噛み潰したような顔をしていたというだけのことであった。 理由にもならぬ理由だが、この数年光秀に制裁を加える機会を狙っていた信長にしてみれば、普段は飲まぬ酒の酔いも手伝って、これが絶好の機会と思ったものらしい。 「貴様ァ、そのしやっ面(つら)、目ぎわりじゃわ!」 ありったけの憎しみをこめて吠(ほ)えたてるとこの右大臣は光秀の髻(もとどり)を掴んで、ぎりぎりと廊下の方へとひきずり、そのまま欄干(らんかん)に力まかせにぐりぐりとこすりつけた。 「うぬという奴はこれでもわからぬかあ!」 何がわからぬといって、どうやら子飼いの直参衆のような信長に対する絶対服従の鉄則をわきまえぬと言いたいらしい。 こういう時、秀吉や他の子飼いの家臣ならば、子供のような思い切り甘えた鼻声で、“お助け下さいませ”を連発するのが、この暴君の怒りをいささかでも柔らげるこつである。 要は負け犬になることなのだが、痩せても枯れても土岐源氏の誇りを持つ光秀にはそのような卑屈なな振舞いだけは出来なかった。 信長に欄干にこすりつけられた頭の頂(いただき)が焼きごてをあてられたように痛んだが、光秀はカッと双眼を見開き、奥歯を噛みしめた。 [くそ!これしきのことで、音(ね)をあげてか!] 腹にありったけの力をこめると不思議に痛さは余り感じなくなったものの、信長の方はそのような光秀の眼に殺気めいた光りが宿るのを見逃さなかった。 「うぬは、何じゃ、その眼は。その腐った心根(こころね)、こうしてくれるわ!」 耳元でがなりたてたかと思うや、光秀は自分でもどうなったかわからなくなった。目から火花の散るような感じを覚え、一瞬後に気づくと安土城天守の渡り廊下を転がっていた。 どうやら自分は信長に顔面をしたたか蹴りあげられたらしいと気づいたのは、霞んだ視界に自分の着物や廊下に点々と鼻血がしたたり落ちる様が映ったからである。血の味がするところをみると口の中も切ったらしい。 すでに頭の月代(さかやき)からは血があふれ、額にかかっている。加うるに鼻と口からの血で光秀の端正な顔は簿暗い灯明のもと、まるでたった今あげられたばかりの生首のような凄惨な面相に変わり果てていた。 |
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